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◎東北地方の代表的な埋蔵金

安倍貞任の埋蔵金(岩手県)
【埋蔵額】=黄金延べ棒九本、延べ板十五枚、砂金多量
【埋蔵者】=安倍貞任
【埋蔵時期】=前九年の役(十一世紀中頃)
【埋蔵地1】=下閉伊郡兜明神岳麓
【埋蔵地2】=千軒岳(鬱金山)
【背景】=平安時代の東北の豪族、安倍氏の金塊が眠っている。
東北地方を潤した砂金をもとに勢力を誇った安倍氏だが、朝廷は源頼義を陸奥守に任じ、武力で制圧をはかった。前九年の役だ。
この前九年の役で滅亡する前に、再建をきした貞任は財宝の一部を兜明神岳に埋蔵したという。残された言い伝えでは、閉伊川の源と北上川の源、二説があるが兜明神岳であることは間違いない。埋宝地を示すという巻物が存在しそれをもとに数々の人が挑戦している。

小松大尽の埋蔵金(岩手県)
【埋蔵額】=砂金の壺三個、黄金の杯五個、黄金作りの刀剣など
【埋蔵者】=小松大尽
【埋蔵時期】=藤原三代の頃
【埋蔵地】=遠野市小友町
【背景】=小友川や猿石川を拠点に砂金を採集して小松大尽と呼ばれる長者がいた。その長者の子供達の相続争いが埋蔵金伝説の元となっている。
腹違いの兄弟で、本妻の子に相続させまいと留守に乗じて遺産を五つに分割、三つの峰と二つの沢に隠した。結局は陰謀が暴露され、二つは世に出たが、残りの三つは埋もれたままになっているという。
その後、発掘を試みる人があり一分を発見したと思われる出来事も伝わっている。

炭焼き籐太の埋蔵金(宮城県)
【埋蔵額】
【埋蔵者】=炭焼き籐太
【埋蔵時期】=平安末期
【埋蔵地】=宮城県栗原郡金成
【背景】=奥州の金売吉次と言えば、義経記」などに登場する奥州藤原一族を陰で支えた強力ブレーン。その金売吉次、吉内、吉六ら兄弟の親が金成の炭焼き籐太と言われる。
「心の素直な炭焼きが神仏のご加護で金を発見」と伝説では伝えられるが、その実は“金鉱掘りの特殊技術者集団”が籐太一族の実体だったのだろう。
籐太には、黄金を投げたという金沼、炭を焼いていたという金山沢、そして金山原という屋敷跡、などが残っている。

西村久左衛門の埋蔵金(山形県)
【埋蔵額】=黄金
【埋蔵者】=西村久左衛門
【埋蔵時期】=江戸時代中期
【埋蔵地】=西置賜郡白鷹町最上川上流
【背景】=京都の豪商、西村久左衛門は米沢藩への回船の乗り入れを計るため最上川の難所、黒滝を改修。直接船を米沢藩まで遡れるようにしたことで、巨万の富を得ることができたという。費用実に一万七千両。その左衛門が子孫のために最上川沿いの家の地下に黄金多量を埋蔵した。
そして、時代は下って、昭和三十六年。付近の川で水遊びをしていた子供が小判八枚と二分銀を発見。さらに小判二十枚、二分銀が多量に拾われるにいたって、久左衛門の埋蔵金が何らかの理由で流れ出したと一躍時ならぬ埋蔵金探しの騒動になったという。

葦名義広の埋蔵金(福島県)
【埋蔵額】=金塊
【埋蔵者】=葦名義広
【埋蔵時期】=天正年間
【埋蔵地】=会津若松市
【背景】=伊達政宗と戦って破れた葦名氏が落ち延びる途中で百頭あまりの馬に積んだ金塊や延べ棒を猪苗代湖に沈めたという。
鎌倉幕府以来の名門、葦名家だけにその財宝は相当なもの。野盗や落ち武者狩りの手から逃れるためには身軽になる必要があった。事実、葦名氏筆頭家老の手記など文献に記され信憑性は高い。
逃亡の経路は、会津若松から東山温泉、飯盛山を通って猪苗代湖西北岸そのまま湖に沿って須賀川から常陸の国を目指したと言うから、沈められた可能性の高いのは猪苗代湖の南端か。

☆青森県の埋蔵金

川越家の埋蔵金
【埋蔵額】
【埋蔵者】=川越家
【埋蔵時期】=江戸時代中期
【埋蔵地】=南津軽郡藤崎町大字藤崎字武元
【背景】=藤崎村の庄屋だった川越家に代々伝わる口伝によれば同家の先祖が金銀財宝を備蓄のため屋敷内に埋蔵したという。昭和20年代、実際に埋蔵金を探した人もいるが、未発見と言う。

油川城の埋蔵金
【埋蔵額】=軍用金数千枚
【埋蔵者】
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=青森市西田字浜田
【背景】=油川城主が配線を覚悟して、城内に後の軍用金として金子数千枚を埋蔵したという言い伝えが残る。目印は埋蔵金の上に植えられたという若竹だった。

五輪塔遺跡の埋蔵金
【埋蔵額】=古銭
【埋蔵者】
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=南津軽郡平賀町大字岩館字長田
【背景】=五輪塔遺跡の発掘を行っていて偶然発見した古銭。北宋銭(治平元宝、元宝通宝)ほか、明銭(永楽通宝)、和銭(寛永通宝)など。

坊主屋敷の埋蔵金
【埋蔵額】=古銭
【埋蔵者】
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=南津軽郡平賀町大字館山字亀岡
【背景】=“坊主屋敷”と呼ばれていた場所を整地中偶然に発見した古銭。五朱銭を始め五十五種、五銭六百十二枚。

九十九森の埋蔵金
【埋蔵額】
【埋蔵者】
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=西津軽郡木造町吹原
【背景】=吹原にある弘法寺の九十九森には埋蔵金伝説がある。かつてこの地を掘った人が古銭を発見したという。

深浦町沖合いの埋蔵金
【埋蔵額】
【埋蔵者】=沈没した南部藩の軍船
【埋蔵時期】=文政年間
【埋蔵地】=西津軽郡深浦町沖合い
【背景】=南部藩の財宝を積んだ軍船が深浦町の沖合いで沈没。大正初年に深浦町の沖合いで小判三枚が引き揚げられたほかその沈船から打ち寄せられたと思われる十四枚の小判が近くの車力町の海岸で拾われた。また昭和三十年には三十キロの銅板二枚が付近の海底から引き揚げられている。

天間林の埋蔵金
【埋蔵額】
【埋蔵者】
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=上北郡天間林村
【背景】=昭和51年、自宅近くの畑を耕していた農夫が寛永通宝や政和通宝など古銭数百種、合計一万枚近くが詰まった瓶を掘り出した。
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☆岩手県の埋蔵金

だんぶり長者の埋蔵金
【埋蔵額】=高さ三尺、四十八体の黄金の人型
【埋蔵者】=だんぶり長者
【埋蔵時期】=六世紀頃
【埋蔵地】=二戸郡安代町平又
【背景】=全国各地に聞かれる“だんぶり長者伝説”のひとつ。この地の長者であった分限者が子宝祈願に人型の黄金四十八体を敷地内に埋めたというもの。めでたく子宝に恵まれたということだがこの手の言い伝え、多分に修身訓話的な物語と考えた方がいいのでは。

岩泉の埋蔵金
【埋蔵額】=一分金三千八百九十枚
【埋蔵者】
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=下閉伊郡岩泉町
【背景】=昭和三十八年、岩泉町で一分金三千八百九十枚が発見。時代背景は安倍の埋蔵金よりぐっと下がって江戸時代の埋蔵か。

正清の埋蔵金
【埋蔵額】
【埋蔵者】=武士正清
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=下閉伊郡田老町真崎
【背景】=こちらも下閉伊郡の言い伝え。当地にあった剛腕の武士、正清が「朝日とろとろ夕日輝く曽根の松うるしまんばい、金おくおく」の言い伝えを残して財宝を隠したというもの。

うつぎ屋敷の埋蔵金
【埋蔵額】
【埋蔵者】=うつぎ屋敷の長者
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=水沢市瀬台野
【背景】=北上川の近くに一面のうつぎが植えられた長者の屋敷があった。その長者が北上川の氾濫で流され、後に埋蔵金の言い伝えとなった。

佐倉河の埋蔵金
【埋蔵額】=古銭
【埋蔵者】
【埋蔵時期】=鎌倉末から南北朝期
【埋蔵地】=水沢市佐倉河字西舘
【背景】=耕作中の農夫が水田より四十八種、三千三十七枚の古銭を掘り当てる。漢代の五銖から南宋の咸淳元宝など。

太田の埋蔵金
【埋蔵額】=古銭
【埋蔵者】=平泉藤原氏の血をひく御用商人
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=花巻市太田
【背景】=耕作中の農夫が木箱を発見、中には漢代の五銖、唐銭、五代十国銭、北宋銭、南宋銭など、五十種近く、総数四千六百五十九枚が固まって出土したという。

森子山の埋蔵金
【埋蔵額】=軍用金六万両
【埋蔵者】=稗貫氏
【埋蔵時期】=天正年間
【埋蔵地】=花巻市高木
【背景】=秀吉による領地没収を恐れたこの地の領主、稗貫氏が森子山の山頂に埋蔵したとの言い伝え。

円万寺館の埋蔵金
【埋蔵額】
【埋蔵者】=円万寺氏
【埋蔵時期】=中世
【埋蔵地】=花巻市膝立観音山
【背景】=前出の稗貫氏の重臣だった円万寺氏にも埋蔵金伝説がある。「黄金億々と漆の杯を館近くの旭さす夕日輝く三つの葉の葛のある所に埋めた」という内容が、円万寺氏の史書に記録されていたという。

梵字沢館の埋蔵金
【埋蔵額】
【埋蔵者】
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=遠野市山口
【背景】=梵字沢館の跡に残された埋蔵金伝説。宝の在処を知っていると言う老人が言い残そうとした言葉が元に。

刈明館の埋蔵金
【埋蔵額】
【埋蔵者】
【埋蔵時期】=戦国時代
【埋蔵地】=西磐井郡花泉町
【背景】=花泉町に居を構えた寺崎氏。その寺崎氏が没した後に「朝日さす夕日輝くその下に、漆万杯。黄金億々」の伝説あり。目印にほうずきが植えられていたとも。

金鶏山の埋蔵金
【埋蔵額】=黄金作りの鶏二羽、漆一万盃に黄金一億両
【埋蔵者】=藤原秀衡
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=西磐井郡平泉町
【背景】=奥州藤原氏が栄華を誇った平泉、秀衡が菩提寺の鎮護を込め中尊寺前に築いたといわれる金鶏山。その金鶏山に黄金作りの二羽の鶏などを埋蔵したとの言い伝えがある。
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☆宮城県の埋蔵金

長者原の埋蔵金
【埋蔵額】=黄金と漆
【埋蔵者】
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=古川市川熊字長者原
【背景】=その名の通り当地に住んでいた長者が、一人娘に対する地頭の横やりを恐れて出羽の国に移住を決意。そのときに黄金と漆を埋蔵という。目印に白南天を植えたという。

銚子ヶ森の埋蔵金
【埋蔵額】=金の銚子
【埋蔵者】
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=白石市銚子ヶ森
【背景】=その昔、金の銚子を埋めたと言い伝えられた塚がある。塚そのものは東山道の要衝として広く知られているもので、寛永年間に発掘の記録有り。ただしその時は大きな平石が出たのみ。


佐々木家の埋蔵金
【埋蔵額】=古銭
【埋蔵者】=佐々木家
【埋蔵時期】=江戸時代
【埋蔵地】=栗原郡若柳町
【背景】=農家の母屋を改築のための地ならし中に壺に入った古銭を 発見。慶長一分銀など、銀貨三百三十二枚。
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☆秋田県の埋蔵金

院内銀山の埋蔵金
【埋蔵額】
【埋蔵者】=秋田藩
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=戊申戦争時
【背景】=秋田藩の隠し金山に備蓄してあった埋蔵金が戊申戦争時のどさくさで行方しれずに。隠し金山一体が奥羽列藩同盟から攻撃を受け多くの坑道が破壊されている。その額数億から数百億まで。

鳥海山麓の埋蔵金
【埋蔵額】=小判、一分金
【埋蔵者】
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=由利郡象潟町
【背景】=当地の農夫が畑を耕作中偶然白磁の壺を発見。中には小判七十枚、一分金八十枚が入れられていた。旧地主の村上氏の先祖が戊辰戦争当時に埋蔵したものか。

朝日長者の埋蔵金
【埋蔵額】
【埋蔵者】=朝日長者
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=秋田市寺内
【背景】=秋田県内の各地に残る「朝日さす、夕日輝く木の下に漆万杯、黄金億おく」の言い伝えのひとつ。朝日長者、夕日長者の伝説はこのほかにも仙北郡太田町、協和町、干畑町、雄勝郡稲川町、由利郡象潟町など多くみられる。


脇本城の埋蔵金
【埋蔵額】=黄金の茶釜
【埋蔵者】
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=男鹿市脇本
【背景】=脇本城の落城時に城の中の井戸に金の茶釜が投じられたというもの。また城下の大倉では古銭二十一種、八千八百枚の出土が報じられている。

十三本塚の埋蔵金
【埋蔵額】=古銭
【埋蔵者】
【埋蔵時期】=鎌倉時代
【埋蔵地】=雄勝郡羽後町
【背景】=十三個の塚のうちひとつが崩壊したときの調査で古銭(宋銭)や金片などを発見。

本城の埋蔵金
【埋蔵額】=古銭
【埋蔵者】
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=北秋田郡森吉町
【背景】=森吉町本城の原野で作業をしていた農夫が偶然古銭を発見。開元通宝から永楽通宝まで中国銭五千六百枚あまり。

榧森判官の埋蔵金
【埋蔵額】
【埋蔵者】
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=北秋田郡森吉町
【背景】=森吉町根小屋にあった判官屋敷が襲撃されたとき、居城の井戸の中に財宝を投じ、上から石を詰めて隠したという。

尼館の埋蔵金
【埋蔵額】
【埋蔵者】
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=北秋田郡森吉町
【背景】=森吉町巻淵にあるかつて尼館と呼ばれた大久保山。そこにあった城が落城の時、宝を埋めたという伝説が残っている。

羽黒埋蔵金
【埋蔵額】=一分金百四枚
【埋蔵者】
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=横手市羽黒町
【背景】=羽黒町の小学生が偶然一分金の入った壺を発見。慶長、正徳享保の一分金で全部で百四枚が見つかった。
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☆山形県の埋蔵金

北畠顕信の埋蔵金
【埋蔵額】=黄金千両ほか
【埋蔵者】=北畠顕信
【埋蔵時期】=南北朝時代
【埋蔵地】=最上郡船形町
【背景】=北畠顕家の弟、顕信が落ち延びてきて当地に隠れ住んでいたがやがて庄内に移住するとき「この原に黄金千両、漆万杯、朱千杯」と書き残したという。去っていくのに黄金を埋蔵するのは不自然だが。

権太夫の埋蔵金
【埋蔵額】=朱砂一壺、黄金一壺
【埋蔵者】=権太夫
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=米沢市御廟
【背景】=上杉家の御廟所のそばに権太夫と言う長者が住んでいた。権太夫は八郎沼に住む蛇の化身から善行のお礼に使っても使ってもなくならない黄金の小袋をもらったという。その権太夫が亡くなるとき「行けば五里、帰れば七里、朝日さす夕日輝く木の下にあり」という黄金の在処を示す言葉を残したという。

羽黒山黄金堂の埋蔵金
【埋蔵額】=黄金千両
【埋蔵者】=源頼朝
【埋蔵時期】=鎌倉時代
【埋蔵地】=東田川郡羽黒町手向
【背景】=源頼朝が奥州討伐時に戦勝祈願のお礼に建てた応化堂。本来は平泉の金色堂を真似て金箔を貼る予定だったが、急遽本堂の羽黒権現にあわせて素木造りにしたため、余ってしまった黄金を縁の下に埋めて奉納したという。黄金堂と言われる由来でもある。

善太郎家の埋蔵金
【埋蔵額】=黄金
【埋蔵者】=善太郎家
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=西村山郡西川町
【背景】=豪農の善太郎家が残した埋蔵金伝説。「朝日さす夕日輝く木の下に、黄金千両、漆千杯」の書き付けが伝わっている。
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☆福島県の埋蔵金

長岡藩の埋蔵金
【埋蔵額】
【埋蔵者】=長岡藩
【埋蔵時期】=戊申戦争時
【埋蔵地】=南会津郡只見町
【背景】=戊辰戦争の軍資金を会津に回送中の長岡藩士たちが、官軍の急追を察知して浅草岳山麓に軍資金を埋めたという。ただ、急をうけて途中の池に投じた、と言う説もあり埋蔵金として残るならこちらか。

小倉沢の埋蔵金
【埋蔵額】=金塊
【埋蔵者】
【埋蔵時期】=江戸時代初期
【埋蔵地】=郡山市湖南町
【背景】=湖南町の赤津字小倉沢一帯は会津蒲生氏の時代に盛んに掘られた金鉱があった。この金鉱や経沢の金山で掘られた金の一分を鉱夫たちが密かに小倉神社の境内に埋めたという言い伝えが残っている。

虎丸長者の埋蔵金
【埋蔵額】=黄金
【埋蔵者】=虎丸長者
【埋蔵時期】=前九年、後三年の役
【埋蔵地】=郡山市虎丸
【背景】=源義家の東北成敗の遠征で食料の供給を求められた当地の長者が供出を拒んだ為、義家に滅ぼされてしまった。その時に財宝を埋めて逃げたと言う伝説。「黄金千杯漆千杯朝日さし夕日輝く木の下にあり」。

米長者の埋蔵金
【埋蔵額】=黄金
【埋蔵者】=米長者
【埋蔵時期】=前九年、後三年の役
【埋蔵地】=二本松市郡山台
【背景】=郡山台に居を構えていた米長者(虎丸長者とも)が郡山市の虎丸長者同様、義家に対する供応を拒んだ為滅ぼされ、埋蔵金伝説が残された。こちらは「三つ葉うつ木の下」で、実際に二本松の藩主が幕末に探索したとの記録まで残っている。

四本松の埋蔵金
【埋蔵額】
【埋蔵者】
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=安達郡岩代町
【背景】=かつて四本松城の本丸があったとされる岩代町の長折字四本松。この地の名家の家計図の裏に「朝日さす、夕日輝くたんぽぽの、北の稲荷に恩を埋める」の書き付け有り。

銭森長者の埋蔵金
【埋蔵額】=黄金
【埋蔵者】=藤原保祐
【埋蔵時期】=貞元年間
【埋蔵地】=大沼郡三島町
【背景】=三島町の西方にその財は森を埋めるほどで銭森長者と言われた平泉の藤原一族の保祐が残した埋蔵金伝説。西方には長者の石祠が残る。

“勿来の関”研究者が古銭五十種
【埋蔵額】=開元通宝、元祐通宝、五誅銭など五十種
【埋蔵者】
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=いわき市
【背景】=福島県の郷土史研究家が“勿来の関”(なこそ)の研究する上で長年発掘収集した古銭が五十種にもなったという。勿来、大槻天神宮上ノ大古道や大野八幡神社古道など四本の古道から発掘したという。西暦元年の五誅銭など五十四枚に。

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