◎我が国の通貨
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わずか数百年前の江戸時代でも全く現在と異なる貨幣制度。
我が国の通貨に強くなるあの話、この話。まずは江戸時代の通貨から
◇◇◇江戸時代の三貨四進法◇◇◇
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江戸時代の通貨は金、銀、銭(銅)、三種類の貨幣を使用する“三貨制度”と呼ばれる貨幣制度が導入されていた。和同開珎や皇朝十二銭などでもわかるとおり、銭貨(銅貨)は遠く奈良時代から連綿と使われ続けてきた我が国の通貨の基本といえるもので、市場経済が一気に加速した江戸時代に入り、庶民生活にとっても欠かせない通貨として盛んに使用されるようになった。
銭貨は記載された額面で通用する“表記貨”(計数貨幣とも)で、江戸時代には寛永通宝などおなじみの「一文銭」だけでなく、文久永宝などの「四文銭」、宝永通宝という「十文銭」、そして天保通宝という「百文銭」まで存在した。計算法は十進法が採用され、十文で一疋、百文で十疋、千文で一貫文と、“疋”、“貫”という単位も使われていた。
江戸時代には庶民の使う貨幣となった銭貨に対して、金貨は武士などが禄高の米から換金して給金として使用するケースや恩賞として、また豪商などが資産保全などの目的のために使用した。武田信玄が作った“甲州金”制度を参考にした徳川家康は“両”という単位を基本に、一両=四分=十六朱という四進法で“表記貨”として金貨を流通さている。一両の「小判」のほか、一両の半分の「二分判」、一両の四分の一の「一分判」、八分の一の「二朱金」、十六分の一の「一朱金」、そして主に贈答用として使われた「大判」が存在する。この「大判」、表記は十両だが実際はそれ以上の価値を持っていたといわれる。
庶民へ普及した銭貨、武士や豪商などが使った金貨、では銀貨は? というと、「江戸の金使い、上方の銀使い」と言われることでも分かるとおり銀貨は“商い”のための通貨だった。その理由としてあげられているのは、西国では特に銀山の開発が盛んとなり銀が量産されたことと、商取引も活発に行われたため、多くの流通量が確保できた銀貨は使い勝手が良かったためといわれている。銀貨は“匁”(3.75g)という重さを単位とした秤量貨(計量貨幣とも)と表記貨としての使い方の両方が組み合わされていた。
秤量貨としては「丁銀」と「豆板銀」があり、わらじ型の「丁銀」は四十三匁とされたが、小判をさらに縦に引き延ばした様なサイズはまちまちで計量が必要だった。もっぱら大口決済専用の貨幣といえる。これに対して「豆板銀」は「丁銀」を補うもので、細かく切り分けてその都度秤にかけて使用されていた。ちなみに正しい重さの「丁銀」一枚に「豆板銀」十七匁を加えて金一両と交換された。表記貨としての銀貨は十二個で金貨一両と等価とされる「五匁銀」、八個で一両の「二朱銀」、十六個で一両の「一朱銀」、四個で一両の「一分銀」があり、額面の表記で使われた。
以上の三貨の相互関係を示すと。
- 金一両=銀六十匁(元禄以前は五十匁とも)=銭四千文(四貫文)
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もともと通貨間の両替は場所によって、時代によって“相場”が異なっていたため、両替によって富を築きあげることもあったという。そのため寛永年間に幕府が上記の“公定換算率”を設けたほか、特定貨による変動を抑えこむため、そのつど引き締めや放出などの操作を行ったことにより三貨間の相場はある程度の安定が図られたが、後述するように幕府自らの金の改鋳政策などにより物価自体はインフレ傾向が続くことになったという。
◇◇◇初の“表記貨”となった甲州金◇◇◇
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徳川家康がその貨幣制度をそっくり取り入れたと言われる“甲州金”。基本となるのは「碁石金」、「露一両」などと呼ばれる一両金で、永禄年間に領内の多くの金山から算出された金で作られた円盤形や四角形をした金貨だった。
一両の下に四分の一両の「一分」があり、そのまた四分の一分が「一朱」、一朱の半分が「朱中」、一朱の四分の一が「糸目」、さらに糸目の半分が「小糸目」、さらにそのまた半分が「小糸目中」という単位とした“四進法”が採用されていた。ちなみにこの甲州金、江戸時代に入っても文政年間まで流通が許可されていたという。そのため武田時代の甲州金を“古甲金”、それ以降を“新甲金”と呼ぶ。
◇◇◇「両」は中国渡来の単位◇◇◇
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一般の方にとっては江戸時代の通貨の代名詞とさえいえる“一両”小判。その「両」という単位、実は渡来銭同様、中国から輸入されたものが使われた。
もともとの字は「兩」で“はかりのおもり二つ”の意。それが現在は簡易字体で「両」になっている。中国での一両はほぼ十匁(37.5g)で古代、輸入された当時は我が国でも一両=十匁としてスタートしたが、次第に減らされていき鎌倉時代には五匁となり、室町時代には四匁、そして文明年間には四匁五分と決められたという記録が残っているという。
江戸時代には四匁四分(16.5g)とされている。ただし金貨の重さ自体での両という単位は有名無実で、別表の通り実際には大判の重さのみ正確で、小判の方はまるでまちまちという有様に。
◇◇◇我が国で使用された通貨◇◇◇
- ●我が国で使用された通貨一覧
名称 西暦 ○皇朝十二銭 和同開珎 708 萬年通宝 760 神功開宝 765 隆平永宝 796 富壽神宝 818 承和昌宝 835 長年大宝 848 饒益神宝 859 貞観永宝 870 寛平大宝 890 延喜通宝 907 乾元大宝 958 ○渡来銭 開元通宝 621 太平通宝 976 元豊通宝 1078 政和通宝 1111 紹定通宝 1228~ 洪武通宝 1368 永楽通宝 1408 宣徳通宝 1433 ○主な大判小判 重さ 含金量 天正菱大判 1573~1591 165.00g 73.0% 天正長大判 1573~1591 165.00g 73.0% 天正大判 1573~1609 165.00g 73.0% 慶長大判 1601~? 165.00g 68.0% 慶長小判 1601~1695 17.85g 86.0% 元禄大判 1695~1716 165.00g 52.0% 元禄小判 1695~1710 17.85g 56.0% 宝永小判 1710~1714 9.40g 83.4% 正徳小判 1714 17.85g 86.0% 享保大判 1725~1837 165.00g 68.0% 享保小判 1714~1736 17.85g 86.0% 元文小判 1736~1818 13.00g 65.0% 文政小判 1819~1828 13.00g 56.0% 天保大判 1838~1860 165.00g 67.0% 天保五両判 1837~1843 33.75g 84.3% 天保小判 1837~1858 11.25g 56.8% 安政小判 1859 9.00g 57.0% 万延大判 1860~1862 112.50g 36.7% 万延小判 1860~1867 3.20g 57.0%
◇◇◇徳川幕府による小判の改鋳◇◇◇
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- 年々膨らむ一方の幕府の支出に対して年貢米を主体とした収入はほとんど変わらないことから、幕府は小判を改鋳して金貨の絶対量を増量し対処するという場当たりの対応を繰りかえした。その様子は上記の表を見れば分かるのだが、ここではもっと判りやすく金そのものの含有量だけを取り上げて、実質的な小判の価値を比べてみた。
- 年々膨らむ一方の幕府の支出に対して年貢米を主体とした収入はほとんど変わらないことから、幕府は小判を改鋳して金貨の絶対量を増量し対処するという場当たりの対応を繰りかえした。その様子は上記の表を見れば分かるのだが、ここではもっと判りやすく金そのものの含有量だけを取り上げて、実質的な小判の価値を比べてみた。
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慶長小判 15.351g
元禄小判 9.996g
宝永小判 7.839g
正徳小判 15.351g
享保小判 15.351g
元文小判 8.450g
文政小判 7.280g
天保小判 6.390g
安政小判 5.130g
万延小判 1.824g
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この一覧を見ると、幕府が改鋳という甘い“誘惑”に駆られた理由が良く分かる。慶長小判と万延小判では実に金の使用量は約8.4倍。同じ金の量で8倍もの枚数の小判が発行できるのだから、一度改鋳の“効果”を味わってしまったら……それ故、八代将軍、徳川吉宗の享保の改革がより鮮明に浮かび上がってくるのではないだろうか。
ちなみに度重なる小判の改鋳によりインフレに陥った江戸の経済だが、それでも市場のインフレ率は5~6倍だったとする研究が多いので、金の含有量と正比例したわけではなかったことが判る。遅ればせながらでもインフレにつれて賃金にも反映される庶民はまだまし。結局貧乏くじを引いたのは平安の世に禄高の変わりようがなかった下級武士たちだったといえる。
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