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中国が南シナ海で「沈没船」の所有権を主張
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中国の経済関連ニュースを日本語で伝えるWEBサイト、新華社のXINHUA.JPがちょっと気になるニュースを配信していたのでご紹介。基本的に当方は、「海底の財宝」などといわれるいわゆる沈船は、埋蔵金とはまったく趣旨が違うのであまり興味がないのだが、このところの中国の覇権主義に関連するニュースとして取り上げておこうと思った次第。
そのニュースとは、12月4日付けの配信で、
『中国が南シナ海で「沈没船」の所有権を主張、仏考古学者の捜索阻止など取り締まり強化―米メディア』
という見出しで掲載された。
具体的な内容は、以下記事を引用----------
米メディアは2日、中国政府が南シナ海で沈没した船の所有権も主張し始めたと報じた。同海域は中国とインド、中東、アフリカを結ぶ海上交通の要衝で、明代以降に沈没した船は中国やインド、中東、オランダ、英国などの帆船や軍艦など、2000隻を超えるとみられる。韓国・朝鮮日報の中国語電子版が3日伝えた。
報道によれば、中国は他国の政府に対して南シナ海での沈没船回収などの行為が違法だと訴え、海洋監視船が取り締まりを強化しつつある。
フランスの著名な海洋考古学者が率いるチームが昨年、フィリピン国立博物館とフィリピン付近の南シナ海で中国の13世紀の難破船の捜索を行ったところ、中国の沿岸警備隊に阻止されたという。
南シナ海では中国とフィリピン、ベトナム、マレーシア、ブルネイなどが主権を争っている。中国水下文化遺産保護センターの劉曙光主任は、「中国政府は南シナ海の主権を主張できる、より多くの資料を探したいと考えている」と話した。(編集翻訳 恩田有紀)
----------という記事だ。
そう、今まさに緊張が高まっている南シナ海の話題だ。
領有権の確保に着々邁進の中国が、海上ばかりか、海底も舞台に権利を主張し始めているということ。いや領有権問題自体が海底資源の確保、という側面も強いのだから海底資源の調査同様“海底をあさる”行動は、理由はともあれ容認できない、ということだろう。
海底の資源は何も石油やガスに限らない。南シナ海は、まさにアジア版のバミューダ海域やフロリダ半島沿岸。多くの沈船が眠っている海域でもある。中世の海難事故の発生件数を考えれば、南シナ海でも海底サルベージ業が成り立つのは確実だろう。
2007年には、中国広東省陽江市沖の南シナ海で、なんと34兆円もの文化的な価値が眠っているといわれる沈船が発見されたという例もある(ただし、その後確かに報道されたとおりに34兆円もの財宝が引き上がられたかは…何せ、中国のことなので)。話半分、いや話十分の一でも相当な額だ。そこまでの額でなければ、実際に海底から沈船の財宝が引き上げられた例はいくつもある。
この調子でいくと中国は、日本の領海内でも元寇の時に沈んだ元や朝鮮の船は自国に所有権がある、などと言い出すかもしれませんね。まあ、文化財的には重要ですが経済的にはほとんど価値はないでしょうから興味は持たない&他国を侵略しようとした歴史など無かったことにしてるのでしょうけど。
本当の大国になって欲しい中国がらみの話題でした。
--2013年12月4日
二条城で皇室の菊紋の下から徳川家の葵紋が発見される
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世界遺産でもある、京都市中京区の二条城の二の丸御殿唐門に施されている皇室の象徴“菊紋”の下から、徳川家の家紋である“葵紋”が見つかったという。
二条城は、平成23年度からおよそ20年の歳月をかけて28棟ある文化財建造物をはじめ、城内全ての歴史的建造物を中心に修理を行っている最中で、その内の二の丸御殿は徳川家康の創建の後、寛永の大改築、明治期の離宮としての改装を経て、今日に至っている。昭和24年から30年にかけての大規模な修理後すでに50年以上が経過していた。その二の丸御殿の唐門の修理中に飾り金具の菊紋の下にほぼ同じ大きさの葵紋が取り付けられていたというのだ。
--以下読売新聞、8月28日付ニュースから--
『皇室の菊紋の下から徳川家の葵紋…京都・二条城
世界遺産・二条城(京都市中京区)の二の丸御殿唐門(からもん)(国重要文化財)に施されている皇室の象徴・菊紋の下から、徳川家の家紋である葵(あおい)紋が見つかった。
徳川家康が築いた二条城は、1884年に当時の宮内省に所管が移っており、菊紋はその時期に取り付けられたとみられる。
二条城を管理する京都市によると、二つの紋が重なっていたのは、唐門の屋根を支える部材の先端部分にある飾り金具12個。金箔(きんぱく)を張り直すため、銅板で金具に固定された直径約9センチの菊紋を外したところ、下からほぼ同じ大きさの葵紋が現れた。
二条城は1867年の大政奉還の舞台として知られ、その後、京都府や陸軍省などを経て、1939年まで宮内省が管理。京都市元離宮二条城事務所の後藤玉樹・建造物保存整備担当課長は「江戸から明治にかけての激動の時代を映す貴重な資料」としている。唐門は今月、約2年がかりの修理が完了。今は菊紋が取り付けられている。』
関ヶ原の乱の翌年、徳川家康が天下の主たる威厳を示すためと、西日本の諸大名の勢力を削ぐために築城の使役を課して、1603年に完成した二条城。
その歴史はまさに徳川家とともにあったが、1867年に二の丸御殿大広間にて慶喜が大政奉還を発表するに至り新政府に乗っ取られたカタチで、もともとは葵の紋が軒金具に取り付けられていたのだから、存在していたとしても不思議はない。
ただ、徳川家を目の敵にしていた新政府がそのような徳川家の象徴ともいえる葵紋を、痕跡ですら残すことを認めたとは思えず、改修を請け負っていた職人たちによる細工が想起される。
200年以上の長きにわたって主であった徳川家と、新参者でしかない新政府。職人たちの徳川を惜しむ思いがそこにあったのではないだろうか。いずれすぐに戻ってきてもいいように、と考えたとするのはうがちすぎか。
新政府の太政官代が置かれたり、陸軍省が置かれたり、はたまた後には離宮にもなることになる、ことさら左様に重大なる建築物の改修に手抜きがあったとは到底思えない。これだから職人の心意気は面白い、といえないだろうか。
--2013年9月17日
「閑話休題」金にまつわるニュース(パート2)
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台風シーズンということもあり、世界遺産の石見銀山が冠水というニュースをお伝えしよう。
ちょっと日にちが経ってしまったが、記録的な豪雨が立て続けに中国地方を襲っていた7月下旬の30日、この日も大雨に見舞われた島根県では床上浸水などの被害も発生。で、なんと石見銀山遺跡にある江戸時代に掘られていた“龍源寺間歩”(りゅうげんじまぶ)延長約270メートルの坑道の一部が冠水してしまったという。
実際に冠水したのは同坑道の入口から約30メートル程度で、水深は約20センチ。急遽ポンプで排水作業を行ったため、それ以上に被害が広がることはなかったが、万が一を考慮して観光客への公開は中止したという。
出水を前提に掘られている坑道とはいえ、昨今の豪雨の降り方は半端じゃない。万が一水没などということになっては世界遺産の看板が台無しになるところだった。
続いてはオレオレ詐欺など、IT機器を駆使する時代を表したかような新種の詐欺ばかりが注目される昨今だが、どっこい昔ながら古典的詐欺にもご注意をというニュース。それは、金やプラチナの延べ棒に見せかけた偽の延べ板を売って代金をだまし取っていたという懐かしい(?)手口の詐欺師が捕まったというニュース。
大阪府警が発表したところによると、同府松原市の男は、知人らと共謀し、大阪市淀川区の貴金属店に、偽造したプラチナ板を持ち込み27万3千円、また新潟県柏崎市では、偽の金の延べ板を11万6千円で買い取らせたという疑いで8月に詐欺容疑で逮捕された。
ちなみに偽金というのがタングステンにメッキを施したもの。タングステンは金やプラチナに比重が近くメッキすることでチェックをかいくぐっていたという。もちろん見破られなければタングステンの価値は、金の千分の1程度でしかないのでボロ儲け。
男は2年前から全国各地で売りさばいていたと自供しているそうたから、まだまだ被害は埋もれていそうな気配。知らないで転売されているなんてことはないのでしょうか。しばらくは金やプラチナの売買に話には気をつけましょう、のニュースでした。
--2013年9月1日
「閑話休題」金にまつわるニュースを
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これといった埋蔵金ニュースがないので「閑話休題」、世界の金関連ニュースをお伝えしよう。まずは中国。海洋進出になりふり構わず状態で各地で軋轢を起こしているのはご存じの通りだが、陸地の地下資源に関してもいろいろとトラブルに事欠かない。日本を攻撃する“武器”として活用したレアアースばかりじゃなく、内モンゴルでは今、鉱物資源を求めて進出した漢族が財力にあかして策動し、地下資源を根こそぎ搾取されはじめたカタチのモンゴル族との間でトラブルになっているという。
というのも内モンゴル自治区で、このところ優良金鉱が続々と発見されているからなのだ。昨年の9月には、内モンゴル包頭市九原区哈達門溝で推定埋蔵量約70トンという大型の金鉱脈が発見され、経済的な価値として約270億元(約3375億円)の埋蔵量が予想されているという。
そしてこの哈達門溝鉱区からは、今年の2月に入ってさらに資源埋蔵量148.5トンの新たな金鉱脈が発見されたというニュースも入っている。調べれば調べるたびに金鉱脈の埋蔵量が増えており、今後もさらに埋蔵量は増える可能性が高いとか。
ちなみに我が国の超優良鉱山である菱刈鉱山ではこれまでに約200トンが採掘され、確認されている鉱脈だけでもあと180トンは採掘可能と予想されている。こちらも昨年10月に約30トン分の新鉱脈発見のニュースが伝わったばかり。
超大国を標榜して突っ走っている中国、海洋進出と同様、地下資源確保にもますます熱が入ろうというもの。
さて次なる話題は、かつてのゴールドラッシュの国、黄金大陸オーストラリアから。オーストラリア南部ビクトリア洲はメルボルンの西北西約60マイルのバララト(Ballatat)という町でアマチュアの探鉱マニアがなんと重さ5.5kgの金塊を持ち込んだというニュースが入っている。かつて金鉱により発展した同町にある金の取扱店に来た男が差し出したというのがその金塊で、「ここ10年は、1kgを超える金塊ですらほとんど無かった」という取扱店に5.5kgもの金塊を持ち込んだのだからたちまち話題となって駆けめぐった。
発見した状況は、7千ドルで購入した金属探知機を使用して探索中に地下約60センチの深さで金属反応があり、それがこの金塊だったという。
気になる価格だが「自然の金塊なら単純に金の重量の価値よりも数10%は高値が付く」ということから、約30万ドル程度で買い取られたのではと見られている。
ちなみに世界最大の金塊は、ラスベガスのダウンタウンにあるその名も「ゴールデン・ナゲット」というホテルに展示されている「HAND OF FAITH」。重さ27.6kg、大きさにして50センチほどの金塊。奇しくもこちらもオーストラリアで金属探知機によって発見されたものだったとか。
また、我が国の三菱マテリアルが鋳造した重量250kg、底面455×225mm、上面380×160mm、高さ170mmの金塊は、人造の金塊としては世界最大のものといわれている。現在も土肥金山に展示されているはず。ちなみに三菱マテリアルでは、2000年に200kgの金塊を鋳造、当時世界最大の金塊としてギネスブック入り。しかしその後台湾で220kgの金塊が作成されたことから、巻き返しを図って2005年6月にこの250kgの金塊の鋳造に成功したという。金箔に伸ばすと畳7万枚以上、東京ドームでは2.6個分を敷き詰めることができるのだとか。価格は1kgあたり442万5千円として約11億円。
--2013年8月1日
“観音様のお告げ”と男体山で地権者に無断で穴を掘った自称運命鑑定師が摘発される
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我が国の“埋蔵金”の代名詞ともいえる「徳川埋蔵金」。親子3代にわたって探しつづける水野さん一族の話や、TV番組の一環として重機を導入して大々的に地面を掘り返した糸井重里氏のプロジェクトなどもあり、まさに知らぬ人のいない話題だろう。
ただ、そんな影響もあって、どうしても「徳川埋蔵金」といえば赤城山が注目されてしまうが、実は「徳川埋蔵金」のターゲットは赤城山だけじゃない。東照宮のある日光山から男体山、榛名山、妙義山と北関東一円いたる所に“候補地”が広がっている。「物証の多すぎる赤城山は“おとり”で、本来の埋蔵地から目をそらさせるためにわざわざ偽装した」というわけだ。
そんな、「徳川埋蔵金」の“候補地”のひとつ、男体山でとんでもない事件が起きた。昨年の夏から暮れにかけて男体山の山麓で、他人の所有する山林で勝手に埋蔵金探索のための穴を掘っていたグループが12月21日、栃木県警日光署に摘発された。
そのグループとは、自称“運命鑑定師”H容疑者(82歳)を中心とする男女3名。実はこのグループの首謀者、H容疑者は女性で、かつて“霊示気学二穣会事件”でも有名となった二穣師女、その人だった。運命鑑定の一環として“念金浄化”(紙幣を燻蒸するだけの行為を“念金浄化”と称していた)を行うために、会員から集めた多額の紙幣を元夫に持ち逃げされたりして、返金できなくなり詐欺罪に問われ、有罪となった。そんな過去を持つH容疑者が、今度は他人の土地を無断で勝手に掘り返していて捕まったというのだ。
各新聞、WEBニュースなどから事件をまとめると、同容疑者を含めた男女3名は、栃木県日光市の宗教法人、日光二荒山(ふたらさん)神社が所有する男体山山麓の山林で、8月の上旬から12月中旬まで、同社に無断で穴を掘っていたという。同社によれば「夏頃から数回にわたって穴を掘らせて欲しいと頼まれたことはあったが断った」という。この時の人物が容疑者のグループと関係があるかどうかは今のところ不明。
勝手に掘っていた理由というのが、「ここにお宝が埋まっているという観音様のお告げがあった」から、と警察の事情聴取で供述しているという。
12月上旬に散歩中の地元住民から110番通報があり、駆けつけた署員が現場で取り押さえたという。容疑は「器物損壊罪」。他人の持ち物を勝手に傷つけること、が「器物損壊罪」の要件だが、他人の土地を勝手に掘ったり、他人の飼い犬の毛を刈ったりしても成立する犯罪だ。
ちなみに掘られた穴というのが、広さはわずか4.62メートル平方だが、深さが何と11.3メートルもあったそうだ。短期間に人力で掘れるのはせいぜい深さ2~3メートル、穴掘り専用の油圧ショベル(バックホーとかドラグショベル)を使ったとしても、アームの長さから通常は7~8メートル程度。10メートルを超える穴となれば、深い穴を掘るための専用の油圧ショベル(テレスコアーム掘削機など)を導入しなければとても掘れないはず。また掘った後も土留めをしなければ崩れてしまう可能性があり危険だ。11.3メートルとはそんな深さなのだ。ちなみに器物損壊の被害額としては、現状に復すための修繕費が約58万円とか。
“占い”や“お告げ”で埋蔵金のありかが分かれば世の中そんな楽なことはない。今頃、日本中の埋蔵金という埋蔵金は全て掘り出されている。蛇足ながら最後に付け加えておくと「宝が埋まっているという伝説はありません」と二荒神社さんのコメント。とんだ騒動でした。
--2013年1月9日
戊辰戦争中に座礁沈没した米国船ハーマン号を勝浦沖で発見
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2012年も押し詰まった12月28日、読売新聞が戊辰戦争中に沈没した傭船“ハーマン号”の遺物引き上げを伝えていた。
沈没船の引き上げとなると財宝がらみで埋蔵金と一緒くたにされて語られるケースが多いが、陸上の埋蔵金と違って沈没船は“史実”に裏付けされた身近な出来事。当事者も判明していることがほとんどで、現状では遺失物の延長として考えられている。当WEBサイトでも情報の一端として沈没船の話題も載せてはいるが、本来はテリトリー外なので念のため。
ま、それはともかくこの沈没船の探索、引き上げという作業は、海外ではすでに商業ベースで事業化されて行われるようになってきている。沈没海域の絞り込みと、探索にかかる費用対効果がほとんど全ての決め手で、実際にカリブ海などでは、幾多のチームが沈船を発見、多くの財宝を引き上げてきている。億単位で資金を投入し、数十億、数百億の利益を得るというケースも。
またそういった商業主義に対抗するかのように、ユネスコは水中文化財として保護に乗り出しており“水中文化遺産保護条約”を作り「文化的・歴史的または考古学的性質を有する人間の存在のすべての痕跡で、その一部または全部が定期的または断続的に、少なくとも100年の間水中にあった考古学的・自然的背景を有する文化的遺物」(第1条1項)である水中文化財は「商業目的に利用されてはならないこと」(第2条7項)として各国自らの手による保護を強く求めている。
ひるがえって日本では、となるとやっと沈没船の存在そのものに焦点が当てられ始めたというところ。「水中考古学」として学術的にも一般に認知されるようになってきたのはつい最近のことだ。ただ、海洋に囲まれた日本のこと“史実”として残る沈没船の数は多く、今後もさらに目にする機会は多くなっていくはず。
話がそれたが、読売新聞が伝えた沈船のニュースとは、以下の通り。
『戊辰戦争中に沈没「ハーマン号」
船体構造、装備解明に期待
戊辰戦争中、新政府軍側の熊本藩兵らとともに、千葉・房総半島沖に沈んだ米国製蒸気外輪船「ハーマン号」(全長71㍍、1734総㌧)の船休が海底で見つかり、調査が進んでいる。「黒船」と同じ蒸気外輪船の詳しい構造のほか、当時の装備や航海機器など、新たな発見に期待がかかる。
熊本藩は、当時日本に往来した外国船でも最大級の木造輸送船のハーマン号を横浜で借り上げ、藩兵350人、米国人乗組員80人を乗せて、1869年2月に北海道に向けて出航させた。函館・五稜郭に立てこもった榎本武揚の旧幕府軍との交戦に援軍を送るためだ。だが、悪天候により千葉県勝浦市沖で沈没し、藩兵約200人、米国人22人が犠牲になった。
米国で水中考古学を学んでいた井上たかひこさん(69)が1980年代、この事故を知り、91年に帰国後、調査を開始。地元漁協の協力を得て、98年に勝浦市沖合約800㍍にある水深10㍍前後の岩礁で、海藻の森の中にある沈没船を発見した。
資金難や荒い潮流 調査難航
翌年、日本水中考古学調査会を設立し、会長に就任。これまでの潜水調査で、船体は大半が、長さ23・5㍍、幅5㍍の範囲で砂利に埋もれていると分かった。一帯からは、長さ約20㌢の船くぎや真ちゅうの板材、石炭など船に関する遺物のほか、熊本藩兵の持ち物と思われる土瓶や茶わん、米国人が船で使ったとみられる19世紀半ばの洋食器やワインボトルも見つかった。
同会は、遺物の年代や文献から、この船体をハーマン号と判断。船体に機関部のような、さびた金属塊があることから、見えている部分は中央部の船底らしい。熊本藩の文献には、ハーマン号は銀1万2000~1万3000両の軍資金を積んでいたとある。未調査の土砂の下からは、銃や弾薬など装備品のほか、日記など個人的な所有物が見つかることも期待される。
だが、水中遺跡の調査には、潜水の費用や船のチャーター、人件費などで膨大な費用がかかる。さらに、この海域は潮流が荒いため調査が順調に進まず、費用も増大しがち。一時は、米国の大学が調査を行う予定だったが、2008年のリーマンショック以降の資金難で頓挫したという。
今年8月に行った潜水調査では、東日本大震災の影響がほぼなかったことを確認した。今後、現場の見取り図を作成し、残る遺物を探す方針だ。井上さんは「市に遺跡として認めてもらって法的な保護の網を掛け、将来の本格的な発掘調査に備えたい」としている。
(文化部 辻本芳孝)』
--以上、読売新聞 2012年12月28日付--
当時の賃借関連の資料が調べられたわけではないので一般論でしかないが、ハーマン号の所有者は米国の海運会社であり、船体が引き上げられれば所有権の問題が発生する。また当時でも、海外ではすでに保険制度が利用されていたはずなので、その場合、保険金が支払われていれば、所有権は保険会社に移っている。また、積載していたという軍資金に関しても、海運会社から肥後細川藩(熊本藩)に沈没被害に対する賠償金等が支払われていれば、軍資金も保険会社に権利が移っているはずで、そこら辺の利権問題を整理してから事に当たっているのだろうか
そうでないと引き上げに成功したからといって文化財として保護することも難しくなってしまう。余計な心配かもしれなが、相手が権利訴訟国家のアメリカだけに、そこら辺をクリアーにしてから事に当たらないと後々面倒なことに。
このハーマン号に関しては、心温まる話題もある。地元といえる千葉県勝浦市では、毎年地元の有志が津慶寺というお寺で犠牲者の慰霊祭を行ってきたのだが、昨年の2月13日には、初めて22人の米国人犠牲者のための慰霊祭を行ったという。
肥後細川藩の犠牲&行方不明者は判明しているが、米国人乗組員の犠牲者は、日本側では名前も分かっておらず「存在自体が完全に忘れられていた」状態たったのだという。異国の地で亡くなり、名も知られずに眠っていた22人の米国人乗組員、今後は肥後藩士と同様懇ろに弔らわれることになるだろう。ただ名前が判明しないのは今も変わらずだそうで、慰霊のため、また日米友好のためにもきちんと調査、記録として残しておきたい。
千葉県勝浦市の遭難現場を望む丘には、1878年(明治11年)に慰霊碑が立てられ、現在は「官軍塚」として市の歴史文化財になっているという。
ちなみに最後に、肥後細川藩拾遺(http://www.shinshindoh.com/hermann.html)という細川家の歴史と業績を紹介するサイトから、ハーマン号事件に関する記録の一部を紹介させてもらった。
『
正月三日津軽應援の我藩兵を搭載せる汽船上総海にて座礁し兵士溺没する者多し
【慶應三年自筆牒控、由明治二年至三年一新録自筆状】
以別紙相達申候津軽表ニ援兵与して被指越候御人数亞船御借請去ル二日乗組品川出帆之處同三日之夜上総國夷隅郡河津村沖ニ而暗■(石偏に章)ニ乗上り終ニ及破船餘計之御人数死亡ニ至候ニ付而ハ不取敢昨夕御武器方御役人是茂右難船ニ逢候者故現實之模様言上之■■早打ニ而被指立候通ニ御座候處今晝吉田少右衛門儀早駆ニ而彼表■(ヨリ)着御人數之内死亡存生之境大概相分候由ニ而夫々書付相達候間便覧ニ認直セ幸ヒ村上彈助儀下坂被仰付置候右之一條を持セ京地迄被指立候條着之上巨細之儀ハ御聞取被下候様船将不案内与相聞申候間於此方様猶更御不運与可申右之通餘計之御人數死亡いたし候而己■ら■多分之御銀茂沈没仕候様成行彼是重疊奉恐入候事共ニ奉存候右ニ付而ハ直様堀田源之允並御役所根取等方江差越萬般都合能取計有之候様申談仕候事ニ御座候猶相分次第追々可得貴處先前條之趣相達申候以上
正月八日 林 九八郎
』
--2013年1月7日
山口県岩国市で中世の豪族の住居跡から古銭が大量に出土
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山口県岩国市教育委員会の発表によれば、12月11日、同市楠町で行われていた「中津居館跡」の発掘調査現場から、備前焼の甕に入った大量の古銭が発見されたという。その数およそ2万枚。直径約60センチの甕にびっしりと“銭さし”の状態で古銭が詰まっており、その量およそ2万枚。11世紀初頭に中国で生産された渡来銭が中心という。発見された場所は、14世紀前半から16世紀にかけての地元の豪族の居宅跡とみられる遺跡で、発掘調査が行われていた。甕は、地下1メートルの所に埋まっており、上部が壊れた状態で、木製の蓋のようなものでふさがれていたようだという。
この遺跡は中世の豪族の居宅とみられ、11月から試掘を進めていたが、市教委では、古銭の発見により12月に予定していた埋め戻し作業の中断、試掘の継続などを含めて再検討するという。ちなみに発掘枚数が2万枚ともなれば、山口県では、山口市興隆寺の8万9千枚、防府市下右田遺跡の1万3千492枚に並ぶ発見になるとか。銭さしの状態で固まってしまっている部分が多く、正確な枚数を出すよりは現状保存して資料性を重視することになる可能性が大だろう。
興隆寺の出土銭というのは、1972年に山口市大内御掘にある氷上山興隆寺の旧境内で、豚の飼育小屋の整備中に地下1メートルの所からこれまた備前焼の大甕が出土。中から明時代の永楽通寶を中心とした古銭、約8万9千枚(推定、重さは294kg)が発見されたというもの。この枚数は全国的に見てもトップクラスの量で、山口県立山口博物館では、16世紀、対明貿易で巨万の利益を得た大内氏一族が興隆寺に寄進した“埋納銭”の可能性が高いとしている。
下右田遺跡とは、佐波川と右田ヶ岳・西目山の間に跨る平地で、山陽新幹線の建築工事により弥生時代から中世までの住居跡などが点在する遺跡が発見された。その中の商家と思われる屋敷跡が残る地中に埋められていた壺を発見。中から63種類の中国銭、合計1万3千495枚が出土したというもの。時代的には鎌倉末から室町時代にかけて埋められたものと推測されている。
また、山口県では、宇部は沖ノ山松浜海岸の砂の中から銅銭の詰まった壺が発見された記録が残っている。量は大したことがないが、何とその発見時期が1740年、元文10年という江戸時代のことだというから驚く。当時宇部地域を治めていた毛利家家老の福原氏に献上され、家宝として伝来したことから今日に記録が残ったという。出土したのは弥生時代中期後半(紀元前1~1世紀頃)の朝鮮系の土器で、中に入っていたのは中国前漢時代の新(西暦8~23年)が鋳造した半両銭が17枚、五銖銭が78枚だった。
--2012年12月21日
※ぜにさし【銭差/銭緡/銭繦】:本来は穴あき銭をまとめておくための、わらや麻のひものこと。百文差・三百文差・一貫文(千文)差などがあった。「さし」、「ぜになわ」とも。すでに古代中国から銭貨の携帯に便利なように銭差で100枚もしくは1000枚を通して1つのまとまりとして用いる例があった、という。
豊臣秀吉の埋蔵金探索の第一人者、鈴木盛司さんが亡くなる
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6月23日付の「朝日新聞デジタル」の報道によれば、太閤埋蔵金の眠る多田銀山で37年間にわたり発掘調査にあたっていた鈴木盛司さんが77歳で亡くなったという。
※以下引用※
『黄金探索37年、夢追い人逝く 多田銀銅山の鈴木さん
豊臣秀吉の埋蔵金伝説が残る多田銀銅山(兵庫県猪名川町)に住み着き、37年間、黄金を探し続けた男性が今年2月、ひっそり世を去った。家庭も定職も持たず、地底でひたすら夢を追う半生だったが、探索はついに実を結ばなかった。
埋蔵金ファンに「多田銀銅山の鈴木さん」で通っていた浜松市出身の鈴木盛司(もりじ)さん(享年77)。ここ数年、老人施設に入所していたが、2月18日に病院で息をひきとった。
鈴木さんの著作などによると、仲間4人と発掘を始めたのは1975年。山あいの民家を借り、古文書を頼りに坑道に潜っては土砂やがれきを運び出した。だが黄金は現れず、仲間は去り、数年後には一人に。孤独な夢追い人としてメディアにも紹介された。』
(朝日新聞デジタル 2012年6月23日7時4分)
※ここまで引用※
鈴木盛司さんといえば、平成10年8月に新人物往来社から発行した『豊臣秀吉の埋蔵金を掘る』(鈴木盛司著・新人物往来社発行・税別2400円)という著書にそれまでの探索記録をまとめて発表している。継続的に同一の埋蔵金を発掘調査していた期間の長さでは、まさに赤城の水野さんに次ぐ長さといえるだろう。
多田銀山の埋蔵金は、一説には埋蔵額が四億五千万両という膨大な額の埋蔵金で、二度目の朝鮮出兵の後、病に倒れた秀吉が豊臣家の将来を案じ大阪城内の金蔵にあった四億五千万両を、この多田銀山に埋蔵したというもの。
ちなみにこの多田銀山は源氏の祖、多田満仲が開いたという歴史を誇った銀山で、源氏を潤し、そして黄金の千成り瓢箪や黄金の茶室に代表される秀吉の富の裏付けともなった優良鉱山だった。しかし、秀吉はこの多田銀山を突然閉山してしまい、その裏で坑道の奥深く瓢箪間歩に巨万の富を埋めたのだといわれる。
実際に埋蔵に携わったのは金山奉行だった、幡野三郎光照と帰化人技術者、今川賀蔵(民振竜)といわれ、埋蔵金は、その後、大阪冬、夏の陣で一分が消費されたが大半は残されたままで、後に幡野の遺書などにより、埋蔵金の事実が知れ渡り、その額の多さと数々の「秘文書」の存在などにより、一躍注目の的となった、我が国の3大埋蔵金の一つといわれる。
鈴木盛司さんのご冥福と、37年間の貴重な探索資料が散逸してしまわないことをお祈りします。
--2012年6月25日
韓国で現代版埋蔵金発掘騒動
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韓国から“現代版”埋蔵金のニュースが伝えられた。それは、時事通信社が1月6日付で報じた情報で、なんでも朝鮮戦争のさなか避難する必要があった一家が、資産保全を図るためお寺の敷地内に金塊に変えた資産を埋めた、というもの。
今日でも戦争などの一大有事の際には、価値の無くならない金の存在と、埋蔵という手段が有効なことを示した一例なのでは。
※以下引用※
【ソウル時事】韓国南部・大邱市にある桐華寺の裏庭に埋められた金塊を探すために北朝鮮を脱出した男性(40)が話題を集めている。裏庭の地下では金属反応が出ており、南北をまたいだ宝探しは熱を帯びている。
6日付の韓国紙・中央日報などによると、男性は北朝鮮で養父から金塊の話を聞いた。養父の両親は、1950年に始まった朝鮮戦争でソウルから大邱に避難。裕福だった両親はこの際、家などを処分して購入した金塊40キロ(時価約1億6000万円)を桐華寺の裏庭に埋めた。
その後、一家は北朝鮮に渡り、両親は男性の養父に金塊を埋めた場所を説明、「韓国に行ったら必ず探せ」と言い聞かせた。北朝鮮で健在の養父は、男性に金塊の発掘を委任したという。
男性は2008年12月に韓国に亡命。生活基盤が整った昨年初めから桐華寺に通い、発掘を認めるよう要請を続けている。昨年末に、専門家が金属探知機で裏庭を調べたところ、深さ1.2メートルのところに電線などとは違う金属反応が出た。
桐華寺の建物は「宝物」に指定されている。発掘には文化財庁の許可が必要な上、金塊が出たとしても所有者をどう確定させるのか、寺側は当惑気味。男性側は発掘が認められない場合、訴訟も辞さない構えだ。
[時事通信社]
※ここまで引用※
埋蔵を行う際のポイントとして、永年にわたって位置が変わらず、万が一焼失等しても再建される可能性の高い寺社などを埋蔵場所の目安にするのは常識。ただ、このケースのように勝手に寺社の敷地内に埋蔵するのは、戦国時代の権力者でもない限り後々トラブルのもと。まあ、確かに“戦争時代”ではあったが…。
それはともかく、日本の法律に当てはめて考えると、一般的な埋蔵金では遺失物法が適用されるが、このケースの場合は、埋めたという人物が特定でき、また「物や金を落としたり、置き忘れたりしてなくすこと」という遺失物の定義にはまったく当てはまらない。
勝手に他人の所有地に埋めた行為の是非は問われるだろうが、隠した場所や金額等、当事者しか知らない事実で所有権は確認できるだろうから、当然財宝は男性(の養父)の物と判断されるだろう。ニュースにもあるが、寺の建物は確かに「宝物」なのかもしれないが、裏庭がそれに含まれるかは微妙で、要は寺側の心証を損ねてしまった、ということなのでは。
となると裁判を起こすしかないが、養父が北朝鮮在住ということで、これまた問題を複雑にしてしまっている。発掘させてもらった場合、何割かを寺に寄進するとか、円満な解決方法で埋蔵金が陽の目を見ることを期待したい。
首都圏直下型大地震発生確率のアップや、はたまた国の財政破綻など伝えられる今日この頃、あなたの流動資産はどうされてます? 国が破綻したら紙くず同然になってしまう可能性の高い円など、さっさと見限って金地金に替えていらっしゃる方も多いのでは。でも、埋めるならくれぐれもご自分の土地に、です。
--2012年1月27日
豊臣秀吉の埋蔵金ポイント、多田銀山で坑道をロボット調査
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先月「石見銀山で坑道を再調査」というニュースをお知らせしたばかりだが、埋蔵金関連では本筋と言える「多田銀山で坑道調査」のニュースが入ってきた。
多田銀山と言えば、一般に「国内三大埋蔵金」と呼ばれるもののひとつ、豊臣秀吉の埋蔵金の舞台として有名だ。豊臣秀吉が亡くなる直前の慶長3年6月、自分の亡き後の豊臣家の安泰を図るため、多田銀山に4億5千万両の金銀を坑道のいずこへか埋めたというもの。
その多田銀山でロボット調査が開始されたという。
『秀吉の埋蔵金、伝説では4億両超 多田銀銅山に探査ロボ
豊臣秀吉が開発を進め、天下統一を経済的に支えたとされる「多田銀銅山」。大阪府と兵庫県にまたがって残る坑道の大半は落盤の危険があり、内部の調査はほとんど手つかずのままだった。兵庫県教委は23日から、探査ロボットを坑道の中に入れ、秀吉の埋蔵金伝説が残る「宝の山」の調査に乗り出す。
県教委によると、多田銀銅山は大阪府の池田市、箕面市、能勢町、豊能町と、兵庫県の川西市、宝塚市、猪名川町の計7市町を中心とした鉱脈の総称。2千の坑道があるとされる。
秀吉が天正年間に直轄鉱山として開発。江戸時代は「銀山三千軒(ぎんざんさんぜんけん)」と呼ばれ繁栄したが、次第に衰退し、日本鉱業多田鉱業所だった1973年に閉山した。
今回の調査は、新名神高速道路の橋脚建設に伴う調査で見つかった猪名川町の坑道が対象。坑道内の形の特徴を把握して年代を特定し、多田銀銅山の実態を調べるのが狙いだ。秀吉ゆかりの坑道「瓢箪間歩(ひょうたんまぶ)」や「台所間歩」の名が残る銀山地区の近くに位置する。
坑道は斜め上に向かう横穴。7月の事前調査では、入り口の高さ0.90メートル、幅0.6メートル、長さは約6メートルと確認した。奧に行くほど坑道の高さは低くなり、突き当たりの天井には鉱脈につながっている可能性のある立穴(たてあな)も見つかった。
23日からの調査で使うのは、松江工業高専の久間英樹教授が開発した長さ約60センチの探査ロボット。傾斜角などを測れる小型センサーとカメラがあり、坑道入り口から遠隔操作できる。
今回の調査に、埋蔵金伝説に関心を寄せる講談師の旭堂南海さんは「財政難にあえぐ自治体が、とうとう埋蔵金のロマンに手をつけるのか。兵庫県が大金持ちになれる瞬間が近づいたかも」と興奮気味に語る。
一方、県教委は伝説からは距離を置く。調査を担当する県立考古博物館(播磨町)の深井明比古課長は「多田銀銅山は長い歴史を持つ産業遺産。ロボットの力を借り、実態解明につなげたい」。今後も調査を続ける。
(日比野容子)
◇
〈豊臣秀吉の埋蔵金伝説〉 息子・秀頼の行く末を案じた秀吉が1598(慶長3)年6月、大坂城に残っていた朝鮮出兵の軍用金4億5千万両を多田銀銅山の21カ所の坑道に埋めた、と埋蔵を命じられた家臣の遺書などに記されていたとされる。現在なら兆円単位の価値だとする試算や、財力を誇張しただけとの見方もマニアの間にはあり、群馬県の徳川埋蔵金、茨城県の結城家埋蔵金と並んで「日本の三大埋蔵金」と称される。 』
--以上、asahi.com(朝日新聞社)webサイト 2011年8月22日より--
豊臣秀吉が亡くなったのは、慶長3年の8月。そのわずか2か月前、病に伏していた秀吉は、突然多田銀山の閉鎖を命じて多田銀山から一切の人を遠ざけた。“銀山ばらい”といわれた出来事だ。そして金山奉行の幡野三郎光照に命じて、無人となった銀山で死刑となる罪人を使い軍資金4億5千万両を坑道の10数ヵ所に分散して埋蔵をさせたという。
これらの埋蔵金は、政権を一次預けたはずの徳川家康から、成人した秀頼に政権委譲が成された時に掘り出して使われる予定だった。埋蔵の事実が知られることとなったのは、「清水心竜之巻」「幡野三郎光照遺書」などの秘文書と絵図の存在だ。
あくまで一時的な埋蔵で、時機到来ならば即役立てられるように、埋蔵場所や発掘の方法等がこれらの秘文書に詳細に記されていたという。
とくに最大の埋蔵ヵ所は盗掘されないように水没されており、そのための水抜きの方法なども記されていたのだという。この文書は“その時”が来るまで幡野家に秘匿されていたといわれている。だたもう一組、淀の方にも同じものが預けられていたというので、2通存在していたことになる。
これらの秘文書が、めぐりめぐって外部に知られることとなった。ただ秘文書が手に入ったからといって、すぐに埋蔵場所が分かるわけではなく、埋蔵の手引きとも言える八門遁甲法により解読をしなければまったく役に立たないように記されているという。
また一説によれば、埋蔵後、そのうちの二箇所はすでに掘り出されたという。初めて手を付けたのは、関ケ原の戦いの軍費として、もう一回は、大阪城落城後に、真田幸村の家臣、穴山小助が掘り出し、豊臣と繋がりのある薩摩島津家に届けられたという。こちらは秀頼の生存九州落ち延び説に繋がるのだが、そればまた別の機会に。
ちなみに多田銀山自体の開発は秀吉の時代よりもさらに古く、源満仲より発見されたという説がある。正式の記録として残るもっとも古いものは鎌倉時代で、能勢採銅所が設けられた1037年というのがある。その後も採掘は続けられていたが、秀吉の時代になって、唐から日本に渡ってきた帰化人から技術を習得。先進の採鉱法や精錬法を利用して増産させている。
ただ、あくまで多田銀山はその名の通り銅や銀鉱山であり、金を産出したわけではなかった。また、銀山としても同じ兵庫県の生野銀山ほどには産出量の多い銀山ではなかったので埋蔵には都合がよかったのだろう。
豊臣氏滅亡後は、徳川幕府によって運営が再開され、採掘が行われているので、その時まで坑道内に埋蔵されたままだとしたら発見された可能性は高いといえる。そして万が一発見されたとしても公表されることなく、そのまま徳川幕府の懐に入っているのではないだろうか。ちなみに半世紀後の寛文年間には徳川幕府の天領となって、年間で銀1,500貫(約5.6トン)、銅70万斤(約84トン)と秀吉の時代の数十倍もの産出量を記録しているので、坑道内のあらゆるところで探鉱がおこなわれたはず。いかに八門遁甲で隠されたとはいえ、発見されずに現在まで残っていると考えるのは難しいと思う…。
今回のニュースによれば、自走型のロボットによる探査のようで、あくまで坑道内の状態調査が主な目的。埋蔵金の探査とはまったく趣旨が違うので、万が一にも隠された埋蔵金を発見することはないはず。地中レーダー等の探査機器を搭載していなければ埋蔵金ばかりか新たな鉱床を発見するのも難しいだろう。
ただ、現在の坑道内の正確な状態を記録してくれるのはありがたいことで、詳細なデータが公開されることを期待したい。
--2011年8月30日
世界遺産登録の石見銀山で新たな坑道20カ所を発見!
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本サイトでも、かつて世界遺産登録が実現するかどうか、という時期に何回か取り上げさせていただいた石見銀山。無事めでたく世界遺産に登録されたのは皆様ご存じの通り。
その石見銀山にちょっと気になる動きが出ている。それは7月7日付けの毎日新聞が報じた以下のような内容なのだ。
『<石見銀山>「新たな坑道」計20カ所発見』
という見出しで、
『世界遺産・石見銀山遺跡(島根県大田市)の現地調査で、銀を採掘した坑道=間歩(まぶ)=とみられる穴が6月末までに計20カ所見つかったことが分かった。確認されれば、世界遺産登録後初の新たな坑道発見になる。
同遺跡では銀山中心部で583カ所の間歩が確認されている。島根県教委は今年度から中心部外側の調査を始め、15年度までに銀山全体の規模解明を目指す。
調査した同市石見銀山世界遺産センターの岩橋孝典・専門研究員は「いずれも人工的に掘った穴で間歩とみられる。5年間の調査でさらに多くの間歩が見つかる可能性が高い」と話している。
同遺跡は16~17世紀に最盛期を迎えた世界有数の銀山跡。毛利氏や徳川幕府の支配下で経済基盤を支え、大航海時代以降、世界に流通した銀の多くを産出した。07年に世界文化遺産に登録された。【鈴木健太郎】』
という内容の記事だ。
石見銀山といえば、太閤秀吉の埋蔵金が眠ると言われる兵庫県の多田銀山と並び、我が国の銀の産出を支えた一大銀鉱山。さすがに江戸時代まで管理された現役銀山だっただけに、派手な埋蔵金の話題こそ無いが、今でも全体像がつかめないほどの巨大な坑道をもつ“パワースポット”と言えるだろう。
ちなみに一方の多田銀山の方が、何故埋蔵金の舞台となったかといえば、、二度目の朝鮮出兵の後病に倒れた秀吉が、豊臣家の将来を案じて大阪城内の金蔵にあった四億五千万両を、この多田銀山に埋蔵したというのだ。そのために源氏の祖、多田満仲が開いたという由緒正しき歴史を持つ多田銀山を突然閉山してしまい、坑道の奥深くの“瓢箪間歩”に巨万の富を埋めたという。
現地で埋蔵作業の監督に当たったのが金山奉行、幡野三郎光照と帰化人技術者、今川賀蔵(民振竜)。埋蔵金の一部は大阪冬、夏の陣の時に持ち出され、消費されてしまったが、大半はそのまま残されたといわれる。
後に幡野の遺書などにより、埋蔵金の事実が知れ渡り、その額の多さと数々の「秘文書」の存在などにより、一躍注目の的となったというわけ。
八門遁甲によって隠された埋蔵金を説くカギとなる秘文書は「幡野三郎光照遺書」と、光照の子の「和田二郎光盛文書」、振竜の「水抜き秘法」そして、淀君に預けられた肝心の「清水心竜之巻」と絵図三葉という。
はてさて、石見銀山の“新発見”の坑道から何か出てくる可能性は無いのでしょうか? ご注目を。
--2011年7月8日
北海道弟子屈町で金鉱発見!
- 北海道は道東のほぼ中央部に位置する弟子屈町から金鉱発見のニュースが伝わってきた。
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釧路新聞が1月13日に掲載したもので、ゴールドラッシュの期待に地元弟子屈町が一躍わいているという。弟子屈町の奥春別という山林で鉱物調査を続けてきた“資源開発”という企業が、昨年、試掘した鉱石をカナダの研究機関に送って分析をしてもらっていた結果が出たのだが、なんと鉱石1トンあたり約30グラムの金含有量というという超優良鉱レベルの鉱石が含まれていたことが判明したという。
北海道といえば、さぞかし有名な金山が多いのでは思っていたが、ちょっと調べても意外と歴史に残っている金山はほとんど無い。砂金の話題がこれほど多いのに、その元である金山が“空白地帯”なのは不思議でもあるが、まあこちらは鉱山に関してはどシロートなので見当違いなのかもしれないが。
それはともかく、北海道といえば、北海道の石狩で生まれた畠山清行氏の「日本の埋蔵金」の中の北海道の話は面白い。『蝦夷松前の埋宝』だ。明治維新前、アイヌの遺した黄金にまつわる探索話なのだが、こういった話からも北海道が金に彩られた地であったことが良く分かる。ただそれは川から取れた砂金がメインで、金山、金鉱からの金ではないのだ。
意外や意外、北海道にはまだまだ発見されていない金鉱が驚くほどあるのだろうか。気になるニュースでした。
--2011年1月27日
埋蔵文化財の発掘にかかわる資格の話
- ちょっと気になることがあって発掘にかかわる人間の“資格”について、調べてみました。
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なにも“猫ばば”体質の人は仲間に入れない方が良い、とか映画の世界のような下世話な“資質”の話じゃあない。現在、日本国内で実際に行われている発掘調査では、どんな資格が通用しているのだろうか、ということです。
まず『埋蔵文化財調査士』というのがよく聞かれる資格名でした。
こちらは日本文化財保護協会という団体が検定試験を行って発給しているもので、毎年度試験が実施されるようになってます。受験資格としては(1)“埋蔵文化財調査士補”の資格を取得後、3年以上の発掘調査実務経験を有し、調査報告書を3冊以上または研究論文等2編以上執筆している者、(2)国及び地方公共団体(埋文センターなどを含む)で発掘調査の実施、指導、監督などを行う埋蔵文化財行政に20年以上携わったことのある者、ということで、以上の受験資格を元に筆記試験と面接試験の成否で判断が行われてます。
では、その“埋蔵文化財調査士補”なるものは? というと、(1)学校教育法による大学を卒業し、協会が認める関連分野を専攻した者で、発掘調査実務経験を4年以上(48ヵ月以上)有する者、(2)学校教育法による大学を卒業した者で、発掘調査実務経験を5年以上有する者、(3)前2項以外の者で、8年以上の発掘調査実務経験を有する者、と3通りの受験条件があり、こちらは3日間程度の講習と筆記試験が行われる。
ちなみにこの資格を発給する日本文化財保護協会というのは、埋蔵文化財の発掘調査、歴史的建造物や出土品などの化学分析、修復、復元、保存などの業務に携わっている民間機関が集まった公益社団法人。2005年に民間の任意団体として設立され、2009年には社団法人化されています。
WEBサイトで見ると(2010年7月21日現在)、241名の埋蔵文化財調査士がリストアップされ、調査士補は136名となっています。わずかというか、こんなにというか、微妙な人数です。
で、実際に発掘調査にあたっている民間事業者の集まりだけあって(同、76社が参加している)、その意味では学術的な資格というよりは、現場の作業をコントロールできる能力を裏付ける資格で、文化遺産保護行政を実際の現場で支える人間に与えられる資格といえそう。
※
そしてもう一つの有力な資格が早稲田大学などの音頭取りでつい最近スタートした『考古調査士』でした。
こちらは、“考古調査士資格認定機構”という団体が発給する資格で、加盟する全国の大学・研究機関に共通の統一的な資格審査・授与を行う組織、と説明されている。具体的には、大学等で埋蔵文化財調査を学ぶ“将来の専門家”たちに対して、正確で正しい発掘調査の技術や知識を勉学した証として与えられる資格です。
現在、早稲田大学など7大学等が加盟しており、考古学調査士をめざす人に向けた専門教育が行なわれている。つまりこちらの資格はよりアカデミックな部分での資格といえる。
資格を取得するための特別な試験とか面接があるわけではなく、加盟大学で埋蔵文化財に関連する単位の修得によって判断され、必要単位を修得した申請者の中から考古調査士資格認定機構により適否が判断されるという。
一般社会人でも履修さえ行えば大学生と同様に申請資格が得られる“社会人課程”というのも用意されており、こちらは大学等研究・教育機関に設置された“社会人課程”の履修条件に従い、キャリアアップ・コース、リカレント・コース、マネジメント・コースの3コースのいずれかのプログラムを終了すればそれぞれの申請資格が得られるという。
ちなみにこれらの申請資格は順に「2級考古調査士」「1級考古調査士」「上級考古調査士」と3段階の資格への条件となっており、2級は大学の学部コースと同等、1級は大学院コースと同等のレベルとなっているという。
考古調査資格認定機構はあくまで民間団体で、機構の運営委員会の顔ぶれもほとんど大学の教授や名誉教授が占めていることからも性格が分かろうというもの。
ちなみに文化庁が2009年3月に出した「埋蔵文化財保護行政における資格のあり方について(中間まとめ)」によれば、1994年に設置された“埋蔵文化財発掘調査体制等の整備充実に関する調査研究委員会”から「記録保存調査委において民間調査組織の導入を図る場合の発掘担当者の見極めに資格は有効で、引き続き検討が必要である」との指摘があり、それを元にここ数年で生まれた資格だったわけです。
一方は発掘現場の企業団体から、もう一方は研究を行う学術畑のアプローチから、と異なった性格の2つ組織の資格が生まれました。
このように発掘に関連する資格はこの数年で初めて誕生したのでした。ちょっと驚きでしたね。それまではあくまで“経験”がすべての世界だったのでしょうか。
新たにスタートした埋蔵文化財の発掘に関連する資格の話題でした。
--2010年7月21日
大和市教育委員会が“埋蔵金”本を発行!?
- お堅いイメージのお役所が“埋蔵金”本を発行!? そんな気になる話題が伝わってきた。
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神奈川県の大和市が6月1日、大和民話・伝説シリーズの最新刊として『浅間神社と義経の財宝』を発行したという。なにやらとても面白そうな刊行物と思いきや、やはり“埋蔵金”本って訳ではありませんでしたのでご安心を…。実はこの『浅間神社と義経の財宝』は「地域の民話や伝説を少しでも多くの人に知ってもらおうと、市内の伝説などを絵本にした大和民話・伝説シリーズの最新作」(大和市WEBサイトより)だったのだ。
そう絵本なのでした。ただ絵本といっても「壇ノ浦の戦いで平氏を破った義経が、勝利の報告をしようと鎌倉に向かったが、兄頼朝に鎌倉に入ることを許してもらえず、京の都に帰る道中に浅間神社に立ち寄り、頼朝に渡す予定であった献上品を埋めたという伝承を題材に作成。また、同絵本には財宝伝説のほかに、鶴間という地名の起源についても語られている」(同WEBサイトより)とさすがお役所、かなりキチンとした内容の作りになっている。
A4変型判(縦29.7×横16.5cm)の32ページ。千部発行。興味のある方は大和市役所の文化振興課窓口、または、つる舞の里歴史資料館、郷土民家園、下鶴間ふるさと館などで、500円で販売しているというのでご参考までに。
トロイの遺跡を発見したハインリッヒ・シュリーマンの逸話じゃないが、子供たちには夢を持って欲しいもの。世間のお母さんたち、公の機関が発行した絵本なので安心して子供たちに読ませていただいてはいかがでしょうか。大きくなったら埋蔵金を発見して親孝行してくれるかもしれませんよ!?
--2009年6月6日
深溝松平家当主の墓から小判43枚、一分金117枚ほか発掘
- 埋蔵金発掘のニュースではないが、愛知県の深溝(ふこうず)松平家の第7代当主だった松平忠雄の墓所から、
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小判43枚、一分金117枚他が発見されたというニュースが入っている。いわゆる“副葬品”というものだ。
出土したのは額田郡幸田町深溝の本光寺で、発掘にあたった本光寺深溝松平家東御廟所調査会が5月14日に発表した資料によれば、慶長小判など小判が43枚、享保、正徳などの一分金が117枚、それに飾り太刀が一振り、太刀二振り、石帯一本、手鏡一面、眼鏡一個、金属椀一客。さらには西洋グラス一客、蒔絵印籠六セット、蒔絵化粧道具箱一式、香道具一式、煙草道具、陶磁器二客、銀製ポットなど文化財として貴重な品々も出てきたという。
本光寺は、深溝松平家初代から19代までの当主の菩提寺となっている。今回発掘されたのはその深溝松平家の7代目の当主で島原藩の藩主も務めた松平忠雄(1673~1736)の墓所。2008年8月末の豪雨で忠雄の墓石が傾き、2009年3月から修復へ向けて事前調査を行っていたという。
墓所は地下約3.5メートルに掘られた石室があり、その中に木棺を収め、墓誌が刻まれた平石で蓋をされていたという。石室の広さは約1.5メートル四方、深さ1.3メートルほど。小判や一分金はこのうちの木棺の中から、そして木棺の周りにグラスなどの様々な品が埋葬されていた。ちなみに副葬品として小判など金貨が確認された例では、盛岡の南部家の墓所からの12枚、仙台の伊達家の墓所からの10枚というこれまでの記録を抜いて過去最高なのだとか。三途の川の渡り賃なら六文銭で充分だが、大名ともなれば…海外の墓荒らしの横行が莫大な副葬品にあったことを考えると、意外に少ない気もする。日本人の埋葬に対する意識の調査にも役立ちそう。
--2009年5月15日
ユネスコ「水中文化遺産保護条約」が発効!
- 当WEBサイトのテリトリー外になるが、ちょっと気になる話題をご紹介しよう。
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見られた方も多いと思うが、この1月17日に放映されたTV番組「世界一受けたい授業」(関東地方では日テレ、午後7時56分~)の“2時限目”で、井上たかひこ先生が『海の中に10兆円!? アナタの知らない世界の財宝マップ』といういう授業をやっていた。
まあ、わずか20分足らずの短い時間で沈没船の財宝にまつわるあれこれから紹介していたので、ほとんど目新しい内容は無かったのだが、唯一、井上先生のプロジェクト・チームがどうやら江戸時代の黒船“ハーマン号”を見つけた、らしいというのが収穫だった。現場から引き上げたという食器や船釘、石炭などを持参していた。
引き上げが成功する可能性は高そうだが、残念ながら「発見場所は教えられません(荒らされるおそれがあるので)」、「まだ見つけられてませんが、“お宝”は推定で約20~30億円になると思います」などのコメントには少なからずがっかりした。
よくある「宝を発見した! でも資金がないからまだ発掘できてません」と同じように聞こえてしまった、というのは意地悪すぎるだろうか。せめて船名の入ったプレートとか、蛇輪など、船を特定できる証拠の品を発見してから公表することは出来なかったのだろうか、と思ってしまう。
それはともかく、このように、沈没船、そして沈没船の財宝というのは確実に存在する。他人の目から隠すために策を弄したり、欺いたりする“埋蔵金”などとはまったく性格が違うことがお分かりいただけるだろうか。当WEBサイトが“テリトリー外”とする理由もそこにある。
で、ここからが本題だ。それは、こういった沈没船の財宝などに関して、初の国際的な取り決めとなる「水中文化遺産保護条約」が発効したというニュースなのだ。ユネスコの活動により、いよいよこの1月からスタートできたという。
世界一受けたい授業の中でも触れられていた“世界一の沈没船の財宝”は広東省沖で発見され、しかも中国の貿易船らしいので問題にならなかったようだが、これがポルトガルなど、外国の船舶だった場合は所有権を巡って争いになるのは必定。ましてや無秩序に引き上げ作業を行えば、貴重な文化財といえる陶器などは破壊されかねなかったといえる。また、船体そのものからして人類の貴重な遺産なのだが、商業的な引き上げではそんなこと言ってられないだろうことは想像に難くない。
このように破壊の危機にさらされている海中や水中の水没文化財を守るために作られたのが、今回の「水中文化遺産保護条約」なのだ。
ただ、簡単にできあがったわけではなく、条約の草案がユネスコで採択されたのはなんと8年も前の2001年11月。それなのに今日まで発効できなかったのは、必要とされた最低20ヵ国の批准が得られなかったためという。
ちなみに批准に二の足を踏む理由は、「水中文化遺産保護条約」自体の内容にある。
条約では、水中文化遺産を「少なくとも100年の間、連続的にまたは周期的に、部分的または完全に水中にある文化的、歴史的、または考古学的性質を有する人類の存在のあらゆる軌跡」と定義している。そしてこれら水中文化遺産は、商業目的に利用されてはならないとされているのだ。そして国連海洋法条約にしたがって、国の領海外に設定されはじめている排他的経済水域や、深海底などにも保護措置が講じられるという。現在の海洋は利害対立の最前線。それにかかわる可能性の高い条約には、と二の足を踏む、というわけだ。
それでも曲がりなりにも発効にこぎ着けられたのは、ウクライナ、エクアドル、カンボジア、キューバ、クロアチア、スペイン、スロベニア、セントルシア、ナイジェリア、パナマ、パラグアイ、バルバドス、ブルガリア、ポルトガル、メキシコ、モンテネグロ、リトアニア、リビア、ルーマニア、レバノンの計20ヵ国の理解、批准があったから。これをみると分かるとおり大国がほとんど批准していない。日本も未だ批准していないのだ。
ま、そこら辺の問題はともかく、今年、2009年は歴史上初めて世界基準の水中文化遺産保護の仕組みが出来た記念すべき年、として記憶されることだけは覚えておいていただきたい。
--2009年1月26日
あの、天下の朝日新聞が埋蔵金を取り上げた!
- ちょっと埋蔵金のニュースから外れてしまうが、気になる記事が
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2008年12月23日付けの朝日新聞朝刊で『穴を掘ったら小判や金貨、もしあなたが見つけたら… 「埋蔵金」悲喜こもごも』というタイトルで、誌面の約8分の1を割いてちょっとした特集として掲載したのだ。
ちなみにこのページ、生活面の“わが家のミカタ”という連載記事の“歳末スペシャル”として取り上げている。内容に関しては著作権があるので引用は差し控えるが、要は2008年の流行語にもなった“埋蔵金”がらみで、本物の埋蔵金の知識を取り上げてみた、というわけ。
さすがに朝日新聞だけあって、埋蔵金に関する一通りのことは分かるように誌面を構成しているのはさすが。まあ、ネタ元は取材されている八重野充弘さんによるところが大なのは容易に想像が付くが、これだけのスペースでよくまとめてくれた記者にも拍手を送りたい。それなりにきちんとまとまっているので、見ていない方は、お近くの図書館へ。朝日新聞のバックナンバーならほとんど必ず用意されていると思うのでご一見を。
それにしても日本丸の舵取りをしなくてはならない政治家からして霞ヶ関の“埋蔵金”頼みでは、この国の行く末はいったいどうなってしまうんでしょう。この記事のように“庶民”のささやかな“夢”として取り上げている分には大いに結構、なのですが…。
--2008年12月24日
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