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『黄金結界 ~甲州埋蔵金の謎を解く~』

 (加門七海著/河出書房新社/1700円+税/1999年12月2日初版発行)が発行されました。
  『覚書◎黄金地帯からの招待
 埋蔵金伝説は、日本各地に存在している。
 徳川の埋蔵金は言うに及ばす、武田や平家、旧日本軍の埋蔵金まで有名無名を合わせると、埋蔵金は日本の地下に満ち満ちていると言ってよい。しかし一方、埋蔵金を掘り当てたという話を、我々が聞かないことも確かだ。
 埋蔵金伝説は、欲に目の眩んだ人々の妄想の結果なのであろうか。それともマルコ・ポーロの伝えたジパング、黄金郷の伝説に我々は振り回されているのか。
 甲州の埋蔵金にかかわりを持ったきっかけは、あくまで仕事としてだった。
「TV番組制作プロダクションの者ですが、話を聞いて欲しいんです。具体的な内容は電話ではちょっと……」
 怪しい電話に用心しつつ、待ち合わせ場所に出かけると、プロデューサーの本間氏は名刺を渡して切り出した。
「実は私達、山梨の埋蔵金にかかわっているんです。金を探している男性を取材で追いかけていましてね」
「山梨というと、武田の、ですか」
「いえ、違います。いいえ、まぁ、そうとも言えるのですけれど」
 氏は微妙に口を濁した。
 聞くと、彼らの追う人物が探しているのは、金を掘る仕事に従事していた「金山衆」が隠した黄金であるという。
 この集団の発生年代は不明だが、金山衆という名称は戦国時代あたりから古文書などで確認されるようになってくる。主な仕事は名称どおり、金を始めとした鉱物採取とその精錬だ。また、穴を掘る技術に長けていた彼らは、(戦国時代の文献によると)堀を埋めたり井戸の水を抜いたりと、城攻めにも協力し、戦力としても活躍したとか。
 しかし古の専業集団に共通して言えることだが、金山衆達が実際にどんな暮らしをし、どのような思想・テクニックを持っていたかなど、詳しい彼らの実態を窺い知ることは難しい。いわば、謎の集団なのだ。
 そんな彼らの名称をいきなり本間氏から聞かされて、私はかなり面食らった。---』
河出書房新社のWebサイトに掲載されている新刊紹介記事の一部だ。
筆者は『人丸調伏令』で作家デビューし、『大江戸魔法陣』『東京魔法陣』など、風水ブームの先駆者として知られる加門七海さん。埋蔵金関連書の著者としては“異色”作家のデビューといえるが、緻密な取材活動に裏付けられた内容はさすが小説界で大注目作家だけのことあり。
この書は、TBS金曜テレビの星「封印された謎の黄金 幻の甲州金山」と連動したもので、映像という瞬間的に流れ去ってしまうメディアでは得られない価値がある。ご一読を。

『明治の郵便船「ニール号」を確認』

 このところあまり動きのない業界(!?)ですが、みなさまはいかがおすごしでしょうか?
 さて、久々にちょっと興味ある新聞記事が出ていたのでご紹介。といってもずいぶん日が経ってしまって申し訳ありません。もともと「海底の黄金」にあまり興味が無いのと、「沈船」と「埋蔵金」はちょっと趣旨が違うのでどうしようかと迷っていたこともあります。それはともかく、一応気になるニュースですからお伝えしておきましょう。
 以下は1999年9月11日付けの朝日新聞夕刊の記事です。
『掘ればザックザク? 明治の宝船ここに
 郵船ニール号 伊豆半島沖船体を確認
 明治の初期、欧州で開かれた万博に出展した日本の文化財を積んで、帰国途中に静岡・伊豆半島沖で沈没したフランスの郵船二ール号(一、七三四トン)の調査が十日行われ、船体の一部が見つかった。沈没から百二十五年。太平洋の底に沈んだロマンを求めて、関係者は「財宝を引き揚げて、当時の日本を知るきっかけが得られれば……」と期待している。調査したのは、ダイバー仲間から成る「二ール号調査団」のメンバー。二ール号は、一八七三年のウィーン万博に出品された純金の茶がまやまき絵、水晶玉などの文化財を積んで帰国途中の翌年三月、現在の南伊豆町入間沖で悪天候のため浅瀬に座礁して沈没した。乗組員九十人のうち、生存者は四人だけだった。
 明治政府は高松藩の純金の茶がまなど一部を引き揚げたが、水晶玉、太刀、陶器類など見つからないものも多数残った。その後、沈没地点が水深三○メートル以上で深いことなどから本格的調査は行われず、二ール号はいったん歴史から姿を消した。
 一九八二年ごろ、定置網の点検補修を頼まれた潜水作業員が砂地の一部に岩礁のようなものを見つけ、二ール号ではないかと話題になった。その話を聞いた仲間のダイバーたちから、「ぜひ本格的な調査を」という機運が高まり、調査が始まった。
 調査団の永出雅一さん(四五)は、「文化財発見への期待はふくらんだ。サルベージなどの費用の間題もあり、興昧のある人たちに支援を呼びかけていきたい」と話している。』
 というものです。
 ちなみに日本近海の沈船の情報はかなりあります。あまりに有名な幕末のどさくさで沈んだ榎本武揚の「開陽丸」や「美加保丸」、そして同じく幕府の御用金を積んでいたといわれる「早丸」、日本海海戦でのバルチック艦隊の「イルティッシュ号」、「アドミラル・ナヒーモフ号」、第二次大戦関係では「天応丸」「三星丸」、また最近同じように新聞紙面に載った長崎湾の海底に眠る「マードレ・デ・デウス号」など多くの艦船が財宝とともに眠っているといわれてます。
 戦艦大和の沈没位置を確認、引き上げの話題や、タイタニック映画のヒット等、沈船関係のニュースが多いですが興味のある方は、こちらの記事の継続調査のほどよろしく。

『日本から流出してしまった古銭』

 新聞切り抜き記事
『江戸大名の収集古銭
大英博物館にあった
【ロンドン7日=時事】江戸時代随一の古銭収集家として知られる京都・福知山藩主、朽木昌綱(一七五○~一八○二)が集めたコレクションの一部が七日までに、ロンドンの大英博物館で見つかった。昌綱の古銭は散逸して日本に一枚も残っておらず、存在が確認されたのは初めて。
 発見されたコインは計二千五百十八枚で、大半は「和同開珎」や「万年通宝」をはじめとする八世紀以降の日本古銭。この他、中国の「開元通宝」(七世紀)や「周元通宝」(十世紀)、朝鮮の「三韓通宝」(同)、ベトナムの「太平通宝」(同)など三カ国の外国古銭も多数合まれる。
(1999/03/09付け朝日新聞)

『古銭の出土に注目!』

 新聞切り抜き記事
 『古銭ザクザク各地で出土
発掘された日本列島’98
 徳川家の御用金埋蔵伝説ではないが、古来、日本では、お金を地面に埋めるという習慣があったらしい。近年、各地で古銭がザックザック掘り出されている。
 岩手県大東町の大明神遺跡。昨年三月、道路工事中に重機のツメでひっかかれて重さ百三十五キロ、約三万八千枚の埋蔵銭が発見された。多くは唐・北宋銭だったが、前漢、後漢、随、前蜀、安南、高麗、南宋、元とさまざまで、紀元前二世紀から十四世紀にまでわたる。室町時代に埋めたと推定されているが、なぜ、これだけ大量のお金があったのかは、なぞのままだ。
 発見の一報で駆けつけた岡町文化財調査員の小野寺哉志子さんは「まず目に飛ひ込んできたのは、きれいな緑青。量の多さに興奮してしまいました」。
 今年四月には、東京都府中市の武蔵国府関連遺跡から室町時代に埋めたとみられる永楽通宝など二十万枚以上の銅銭が見つかった。
 慶応大学の鈴木公雄教授(考古学)によると、国内で千枚以上の埋蔵銭が見つかった例は、中世で二百十七件、約三百五十万枚にのぽる。「資料が散逸し、確認できない分を含めれば、実際はおそらく四倍以上はあるでしょう」
 埋蔵銭とは別に、昨年話題を呼んだのが和同開珎の細工谷遺跡から、和同開珎など五十数枚の古銭とともに見つかった枝銭は全国初の発見で、鋳造課程を知る貴重な手掛かりとなる。
 十六日から七月二十日まで上野の東京国立博物館で開催される「発掘された日本列島’98」展は、昨年全国で出士した中から約四百点を展示する。「お金の発見」も当時の生活を知る貴重な宝。このほか、落書きが書かれた飛鳥時代のトイレの扉らしい板も写真で紹介される。建物に残る落書きとしては最古とみられる。
        ◇
 同展は岩手県立博物館で七月二十六日~八月十六日、栃木県立博物館で八月二十三日~九月十三日に開かれる。』
(1998/06/01付け朝日新聞)

『小田原城の研究に貴重な遺構発見』

 新聞切り抜き記事
 『小田原城二の丸跡確認
元禄の大地震で崩壊・焼失
 小田原市教委は三十日、一七○三年(元禄十六年)の大地震で倒壊して焼け落ちた小田原城・二の丸御殿跡を発掘作業で確認したと発表した。二の丸御殿跡の確認はこれが初めてで、「旧小田原城の全体像を把握し、城郭の保存を図る上で重要な確認ができた」としている。
 小田原城は豊臣秀吉の小田原征伐で北条氏が滅んだあと、一六三三年(寛永十年)の大地震でも大きな被害を受けた。この前後の城主だった稲葉正勝、政則によって、本丸、二の丸、三の丸など、最大規模で城の整備が進んだという。
 その城郭が関東大震災より大きかったとされる元禄大地震で「天守閣は崩れ類火、本丸御殿残らず崩れ類火、二の丸館、三の丸侍屋敷も残らず崩れ、類火」の被害を受けた。城主は大久保忠増の時代。
 市教委は、城内の旧小学校跡地で、約百四十平方メートルを発掘調査したところ、深さ六十センチから一・八メートルの深さまでの傾斜地に、建物の焼けた跡である赤茶けた土の層があるのを見つけた。その上部には、一七○七年(宝永四年)の富士山の噴火による火山灰層もあった。』
(1997/10/31付け朝日新聞)

『偽金貨10万枚つぶし返還、 大量流通事件、未解決で幕』

 ちょっと埋蔵金のニュースから外れてしまうが、気になる記事が
 '97年10月24日付けの朝日新聞朝刊に載っていたので紹介しておこう。それは…
『昭和天皇の在位六十年を記念して発行された十万円金貨の偽造硬貨が大量に流通した事件で、証拠品として警視庁に押収されていた偽硬貨が近く元の所有者の金融機関などに返還される。その数約十万八千枚。本物とほほ同じ量の純金製で、重さにすると約二トン、三十億円相当になるという。再び市中に流れることがないように表面を押しつぶして編み目状の文様をプレスした。警視庁捜査三課は七年間にわたって通貨偽造容疑で捜査してきたが、事件の真相はいまだ分からない。過去最大級の通貨偽造事件は未解決のまま、捜査が終結する。
 返還される偽造金貨は二十三日夜、大阪市の大蔵省造幣局から捜査三課に引き渡された。
 記念金貨は九九・九九%の純金製。直径約三センチ重さ約二十グラムで、表にハト、裏に菊の紋章が施されている。大蔵省が一九八六年から計千百万枚を発行し、一般通貨としても流通した。
 しかし、使われた金が約四万円分と少なく、額面が原料費を六万円分上回っていたことから、発行当初から偽造される危険性が指摘されていた。
 偽造金貨の存在が発覚したのは九○年一月。東京都中央区のコイン業者が都市銀行に持ち込んた一千枚の金貨がすべて偽造と分かり、大騒ぎとなった。偽物は本物と比べて表面の文様が荒い、光沢が鈍い、などの違いがあったが、金の分量、純度は本物とほほ同じで、詳細に鑑定しないと見分けがつかないほど精巧にできていた。
 捜査三課は背後に大規模な偽造グループが存在するとみて、流通ルートの捜査を始めた。
 その結果、偽造金貨がスイスを中心に営業活動を行っているイタリア人のコイン業者からスイスとイギリスの業者を通じて国内の三業者に流れ、さらにその業者たちから都内の都市銀行など金融機関に持ち込まれていたことが判明した。
 しかし、その後の捜査は難航。捜査三課などは捜査員を欧州の各国に派遺したが、卸元のイタリア人のコイン業者は偽造への関与を否定。中東で製造されたという情報もあったが、結局、裏付けが取れなかった。
 今回返還される約十万八千枚の偽造金貨は、偽物と知らずに所有していた日本銀行や都市銀行などの金融機関、コイン業者から、警視庁が証拠品として押収したもの。扱いに苦慮していたが、結局、元の所有者に返還することを決め、大蔵省造幣局に委託して九月末から表面を押しつぶす作業をしていた。』
…というもの。もともと額面よりもあまりに原材料費が少ない金貨を発行したのが間違いの原因。記事の中にもあるように、当然このような偽造行為を誘発するのは目に見えていたといえる事件だったのだ。江戸時代の改鋳小判じゃあるまいし、コインのコレクションブームだけを当て込んだ“記念硬貨”にはゆめゆめご注意を。発行枚数からいっても“記念価値”が6万円を超えることなどあり得ないのだから。まあ、硬貨として使えば額面どおり10万円は10万円だから、“お宝”として持っているのも一興!?

『秀吉の“もう一つ”茶室の遺構が発見される』

 “秀吉の茶室”と言えば例の黄金の茶室があまりに有名だが、
 あれはあくまで、秀吉が財力、権力を誇示するための表向きの看板で、わびさびの千利休の第一の弟子といえる秀吉にとって、本当の意味での茶道の神髄をちゃんと解していた、と見る向きも多いのでは。その裏付けともいえる“もう一つの”茶室の方の遺構が佐賀県は名護屋城跡から発見されたというニュースが入っている。
 佐賀県教委が十六日発表した内容によれば、名護屋城の一郭に独立して建てられた四畳半程度の「茶室建築史や茶道史上、極めて重要な草庵(そうあん)茶室と見られる柱の跡などがこのほど確認された」という。もちろんこの発見は初めてのことで、またこの形式の茶室の遺構が発見されたこと自体も初めてなのだそうだ。
 佐賀県鎮西町名護屋にある名護屋城といえば、秀吉が朝鮮出兵の拠点として築かせた問題の城で、一五九一から九二年まで、それはまさに出兵を強要される各地の大名にとっては忌み嫌うべき対象でもあったといえる。今回発見された茶室はもともと屏風(びようぶ)絵や文献に描かれていたもので、存在自体は推定されていたが、特定するに足りる物的証拠が探られていた。
“黄金の茶室”も惹かれるが、文化財的には同等の価値がある“普通の茶室”の遺構の発見と言えそう。
(1997/10/16佐賀県教育委員会発表から)

『遺構の発掘情報』を二つ

 ちょっと外れるかも知れないけど気になるニュースを二つ。
 一つ目は、『安土城の秀吉邸 礎石配置から模型で復元(1997/09/11付け朝日新聞)
「滋賀県安土城郭調査研究所(同県蒲生郡安土町)は、豊臣秀吉が織田信長の築いた安土城内に構えたといわれる「伝羽柴秀吉邸」を模型で復元し、十日、関係者に披露した。同城は本能寺の変(一五八二年)直後に天守閣などが焼失し、発掘調査で屋敷の全体像を解明できたのは「伝秀吉邸」だけ。邸跡から出土した礎石の配置やかわらを基に、当時の文献も参考にして模型を作った。
 模型は実物の四十分の一で、幅一・五メートル、奥行き二メートル、高さ九十二センチ。上下二段の敷地四千平方メートルに立つ九棟延べ六百五十平方メートルを再現した。下段には、大手道に面した壮大な櫓門(やぐらもん)と厩(うまや)がある。上段には、入り口にあたる高麗門、防備を固める隅櫓。奥に入ると、主殿を中心に家来の詰め所の遠侍や台所などが並ぶ。
 同城にいたころ、秀吉は信長に仕える有力武将の一人。藤村泉・同研究所所長は「けんらん豪華ではないが、質実で威風党々とした屋敷だった」と話す。
 安土城を描いた最も古い絵図「近江国蒲生郡安土古城図」(一六八七年)には、秀吉邸のほかに徳川家康邸などの名前と位置が描かれている。天守閣が炎上したとき、「伝秀吉邸」は山ろくにあって類焼を免れ、おいの豊臣秀次が三年後に八幡山城(近江八幡市)を築いた際に移築されたと考えられている。』
もう一つは、『長崎奉行所遺構を発掘(1997/09/13付け朝日新聞)
 長崎県教委は十二日、長崎市立山一丁目の県立美術博物館内の敷地から、長崎奉行所の庭園の池の跡や石塔が見つかった、と発表した。江戸時代に長崎における外交や国防、キリシタンの取り締まりにあたった同奉行所の遺構は近くの知事公舎の敷地内に石垣がわずかに残っているだけで、遺構の発掘は初めてという。
 発掘された池はひようたん形に近く、長さ約十四メートル、深さ約○・六メートル、幅は最大で約六メートル、最小で約三メートル、面積は約七十平方メートル。池の縁はしっくい状の粘士を張り、水が漏れるのを防いだ跡があるという。
 また、長崎奉行所の第八十四代奉行で、「遠山の金さん」の父親としても知られる遠山左衛門尉景晋(とおやまさえもんのじょうかげくに)の名前が彫り込まれた石塔も池の跡から出士した。』
 二つとも直接埋蔵金と関わりがあるニュースではないが、埋蔵金の背景としての“事実”にも日頃から注意を持っていると思わぬところで約に立つもの。特に安土城の遺構に関してはあまり言い伝えのない信長の財宝に関する資料として記録しておきたい。成金趣味と言われる秀吉とはあまりに対照的な信長だが、安土城に注ぎ込んだ労力と財宝はやはり計り知れないものだったことがうかがえる。

『2000年眠った船からつぼ、地中海』

 '97年7月31日付けの朝日新聞夕刊に、気になる記事が載っていたので紹介しよう。
 『2000年眠った船からつぼ、地中海
【ワシントン30日=ロイター】地中海のイタリアとチュニジアの間の深さ約八00メートルの海底に八隻の難破船が沈んでいるのを米国の海洋学者ロバート・バラード博士のチームが見つけ、三十日発表した。最も古いものは紀元前一世紀ごろのものとみられ、中からつほや水差しなどが多数見つかった。古代ローマ人が、かなり仲合にも船を出して活発な交易を行っていた証拠として注目される。  調査は、米海軍の調査潜水艦と音波探知機を使って行われた。難破船は約五十平方メートルにわたり広がっていた。ローマとカルタゴ(現チュニジア)を結ぶ貿易船だったらしい。 「船は突然の大あらしで沈んたようた」と、バラード博士は話している。博士は、豪華客船タイタニックやドイツの戦艦ビスマルクなどの沈船調査で知られている。 』 という記事だ。さすがに金塊がごそっ、などということはなさそうだが、 考古学的にはまさに貴重な「お宝」発見なのだ。 キャンプに出かけたついでに、フィールド散策をお忘れずに!!

山下財宝を追っている方から当ホームページ当てにFAXが届きました

 その内容は、「求む、スポンサー
 私は、山下財宝を探しているトレジャーハンターです。1995年12月に日本軍の書いた地図手書きのコピーを入手しましたので、その地図を元に探索した所、やっと入り口を発見、暗号を解読したものの、トンネル内に爆弾、又は毒ガスが仕掛けてある為、うかつには掘れませんので、このたびスポンサーを公募したいと思います。費用は約2,500万円前後です。スポンサーは1名又は1グループのみです。
山下プロジェクト」
というFAXなのだ。
 山下財宝といえばいわずとしれた、例の旧日本軍がアジア各地に埋蔵したといわれる財宝。あのマルコス氏の膨大な資産の基となったとか、いまでも多くの方々が追い求めていることなどで海外の埋蔵金では一番身近(!?)ともいえるもの。
 わずか50年ちょっと前の出来事だから、まだ現地には当時の状況を実際に目の当たりにした関係者などが残っているというほどの”ホット”な埋蔵金。
 その埋蔵金探しのスポンサーを募集したいというもの。2,500万円ほどの”はした金”をお持ちの方、はたまた、こりゃ番組に出来そうというプロデューサーの方、などなど、興味を持たれた方は連絡してみては。
 ちなみに真偽のほどは当方も全く分かりません。直接ご当人同士連絡していただいて、その上でご自分の責任においてご判断ください。(メールいただければ転送いたします)
 無責任かもしれませんが、埋蔵金に関する情報に「絶対」はありません。また、同様に多くの「ガセ」の存在することも確かです。それを自分で判断するのも埋蔵金探しです。
 埋蔵金探しは“大人”の知的なゲームです。(生活になってらっしゃる方もいるようですが)あくまでリスクもご自分で。

今世紀最大級の金鉱発見は眉唾

 東南アジアで財宝といえばフィリピンの山下財宝。
 津々浦々に「秘密の地図」やら「金の延べ棒を見た」だのの“情報”がごろごろしていることでも有名だが、同じ東南アジアでもインドネシアから「金に目がくらんだあげくの」のニュースが入っている。それも「今世紀最大級の金鉱」だの「大統領が絡んでいるのでは!?」だのとこちらもフィリピンに負けず劣らずの“どでかい話”だ。インドネシアと言えば鉱物資源に富んだ土地柄、確かに有望な金鉱脈があっても不思議じゃない、というところが眉唾話の生まれる土壌となったといえそう。
 5月7日付けの朝日新聞朝刊によれば、 『「今世紀最大級の金鉱」やっぱりウソだった、インドネシア、 サンプル偽造、詐欺事件に発展か』の見出しでその“眉唾話”が紹介されている。
【ニューヨーク6日=市村友一】インドネシアのカリマンタン(ボルネオ島)で見つかったとされる「今世紀最大級の金鉱」は鋼業史上、例のないでっち上げだったことが四日、カナダの調査会社の調べで確認された。金鉱の開発には一攫千金を狙って、スハルト大統領や一族の関係企業も参画していたが、現地から採掘されたとされたサンプルが偽造されており、大がかりな詐欺事件に発展する可能性もある。
 金鉱があるとされていたのは、カリマンタン東部のプサン地区。カナダの鉱山会社プレXミネラルズが一九九三年から探鉱を進め、金の含有量が二千トン前後に達する「世界最大規模の鉱脈」を発見したと発表。同社と米国の鉱山会社、それにスハルト大統領一族の関係会社などが開発を進める段取りになった。
 ところが、今年三月になって、プレX社の技術者が現地でヘリコプターから転落死する不可解な事件が起き、金の埋蔵量が水増しされているのではないか、との疑惑が表面化した。プレX社からサンプルの分析を依頼されていた独立系の調査会社が四日、「サンプルには別の場所で産出した金が大量に混入しており、鋼業史上空前の偽造行為。プサンには経済的に見合う金鉱は存在しない」との報告書を発表した。
 カナダの捜査当局も関心を示している模様だが、プレX社の経営陣は、自らの関与を否定。大手会計事務所などに実態解明を依頼している。(国際面)
 この手の話、別に特異な例ではなく、ただの山を金山と称して高い額で売りつけるという昔からある手口で、金を含む鉱石をねつ造するというのも常石どうり。それなのに何でこんなトリックに引っかかったかが注目したいところ。やはり、それなりの黒幕の存在があるはずで、そこのところ追記事があったら面白そう。
 埋蔵金からはちょっと外れたニュースではありました。

『神々のいたずら』「南蛮船デウス号捜索 長崎湾に沈んだ財宝」

 沈船関係の黄金に興味のある方ならすでにご存じのはずの、
 長崎湾に沈むポルトガル船”デウス号”の引き上げ調査の映像がTBSの特番で紹介された。
 4月20日のゴールデンタイムに『神々のいたずら』というタイトルで、「南蛮船デウス号捜索 長崎湾に沈んだ財宝」として放映されたのだ。
 江戸時代の初期に、ポルトガルの貿易船、マードレ・デ・デウス号がその前にマカオで起きた日本の御朱印船焼き討ちに起こった家康の逆鱗に触れ撃沈されたといういわく付きの船だ。直接手を下した肥前日野江城主有馬晴信の記録などから、同船にはポルトガルの商品を購入した長崎の商人たちが払った莫大な金銀(当時は銀が中心)が積まれていたのは間違いないという。
 番組は例によって「次回に続く」となっているのでお見のがしの方は、次回4月27日放送分をチェックしてください。ちなみに20日の概要は沈船があることは実証されており、またそれが、デウス号と同年代のポルトガル船であること、そして、錨や船釘などの物証も揚がっていること、など。海底につもったヘドロを取り除くところまでとなっている。

金銀など副葬品出土 奈良・大和遺跡

 奈良県北葛城郡当麻町の太田遺跡にある六世紀後半の円墳・小山二号墳で、
 未盗掘の家形石棺の中から金片や銀製装飾品の空玉(うつろだま)、黄色など三色のガラス玉など約700点が出土したと、同県立櫃原考古学研究所が17日、発表した。未盗掘の石棺の中が分かったのは9年前の藤ノ木古墳(奈良県生駒郡斑鳩町)以来。
 石棺は長さ2メートル、幅70~80センチ、高さ60~70センチ。中から厚さ0.5ミリほどの金片が約50点、直径15ミリ前後の紡錘形の銀製空玉20個のほか、直径約4~8ミリの黄、濃紺、緑の三色のガラス玉計約600個、銀製の耳環2個などが見つかった。

和同開珎の「枝銭」が出土

 『「カネのなる枝」出土、大阪--製造途中の和同開珎
 大阪府教育委員会は二十六日、製造途中で貨幣同士が木の枝のようにつながった和同開珎(わどうかいちん)が同市天王寺区の細工谷遺跡で発掘されたと発表した。この状態の貨幣は「枝銭(えだぜに)」と呼ばれており、和同開珎では全国初めての出土で、この地域に造幣所があった可能性が出てきた。市教委は日本最古の貨幣の製造方法を確定でき、また当時、一帯で栄えていた「難波京」を解明する資料になる、としている。
 出土したのは奈良時代の遺構で、そのうち枝銭は直径二・三センチの貨幣六枚が、長さ十一・九センチの棹(さお)部分の両側に並んで付いている。現地説明会は三月一日午後二時から天王寺区細工谷一丁目の同遺構である。』
(朝日新聞 1997年2月27日 掲載)
 久々のビッグニュースといえる、和同開珎の「枝銭」発見のニュースが伝えられた。皇朝十二銭の中でもとくに有名な(小学校の教科書でも取り上げられるくらい。でもかつては「わどうかいほう」と教わったんですよね)我が国最古の貨幣、和同開珎(西暦708年)。それまで国内で流通していた渡来銭から、我が国独自の貨幣として歴史に登場したといわれる、この和同開珎の鋳造過程そのものの遺品が出土したのだ。
 国内での鋳造過程を実証する証拠としてこれほど確かなものはない。同年代の中国や朝鮮半島などの鋳造技術と比較することなどにより、和同開珎そのものの歴史以外にも、大陸と我が国の技術的なつながりまで検証できるまさに貴重な資料。「お宝度」はまさに国宝級でしょう。

「新発見考古学速報展'96」が開催

 1996年6月18日~7月14日、東京国立博物館で「新発見考古学速報展'96」が開催された。
 弥生時代の大型建造物が発見された大阪府の池上曽根遺蹟、奈良県明日香村飛鳥池の金属ガラス工房跡、琉球国王の宮殿、首里城跡などからの遺物12件、西日本最古の石器や、縄文時代の彫刻入りクルミなど単品27点が展示された。

「追跡・徳川金銀王国」

 NHKの注目番組「堂々日本史」で「追跡・徳川金銀王国」{日銀地下金庫に眠る家康の財宝}という番組が放映された。
 600万両ともいえる徳川の財宝の謎を検証。
(NHK 1996年6月4日 10時~10時45分 関東地方)

菱刈、佐渡金山を抜く

 住友金属鉱山が1985年から金を掘りだしている菱刈鉱山(鹿児島県菱刈町)の
 累計生産量が、この3月で74トンを超え、400年近い歴史を持つ佐渡金山(推定73トンから82トン)を抜くことが確実になった。
菱刈鉱山は金の推定埋蔵量が260トンとされており、これで名実ともに「日本一の金山」になる。
(朝日新聞 1996年5月29日 掲載)

中国の古銭多数が出土

 小田原の遺跡
 中世の地方豪族の居館跡と見られている小田原市小船森の「小船森地区内遺跡」から、中国製の銅の古銭が多数出土した。
全部で四十種から五十種、三、四千枚あると見られ、中世の貨幣の流通や経済史などの研究に役立つと、関係者は喜んでいる。
古銭は、直径約四十五センチの柱穴の中に、銭の穴にひもを通してつづった「さし」という状態で見つかった。これまで判読できたものは「洪武(こうぶ)通宝」(初鋳造は一三六八年)と「永楽通宝」(同一四○八年)の二種で、いずれも明の時代につくられ、一般に流通していた貨幣。
 この地方は、古くから中村郷と呼ばれ、十三世紀から十五世紀ごろ地方豪族の居館があったことが分かっており、豪族の備蓄銭ではないかと見られている。
 備蓄銭には、財力として保存したり、呪術(じゅじゅつ)などに使った古銭がある。県内では、鎌倉市の約十八万枚を最高に過去三十三の出土例あるが、 小船森地区内遺跡のように、「さし」の良い状態で出たのは珍しいという。
(朝日新聞 1996年3月7日 掲載)

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