Treasure Japan Reserch

 

 TREASURE JAPAN RESEARCH RSS Icon TREASURE JAPAN RESEARCH RSS Icon

 

◎近畿地方の代表的な埋蔵金

多田銀山の埋蔵金(兵庫県)
【埋蔵額】=四億五千万両
【埋蔵者】=豊臣秀吉
【埋蔵時期】=慶長年間
【埋蔵地】=川辺郡猪名川町
【背景】=二度目の朝鮮出兵の後病に倒れた秀吉が、豊臣家の将来を案じ大阪城内の金蔵にあった四億五千万両を、多田銀山に埋蔵したという。
源氏の祖、多田満仲が開いたという歴史を持つ多田銀山。源氏を潤し、そして秀吉も黄金の千成り瓢箪に代表される富の裏付けとなった優良鉱山多田銀山を突然閉山し、坑道の奥深く瓢箪間歩に巨万の富を埋めたのだ。
実際の監督に当たったのは金山奉行幡野三郎光照と帰化人技術者、今川賀蔵(民振竜)で、一部は大阪冬、夏の陣で消費されたが大半は残されたままで、後に幡野の遺書などにより、埋蔵金の事実が知れ渡り、その額の多さと数々の「秘文書」の存在などにより、一躍注目の的となった。
八門遁甲によって隠された埋蔵金を説くカギとなる秘文書は「幡野三郎光照遺書」光照の子の「和田二郎光盛文書」そして振竜の「水抜き秘法」そして、淀君に預けられた肝心の「清水心竜之巻」と絵図三葉だ。

明智光秀の埋蔵金(滋賀県、京都府)
【埋蔵額】=軍資金
【埋蔵者】=明智光秀
【埋蔵時期】=天正年間
【埋蔵地1】=大津市琵琶湖
【埋蔵地2】=亀岡市亀山城跡
【埋蔵地3】=亀岡市亀山城跡
【背景】=常に信長に対する裏切り者として描かれる明智光秀。しかし、それはあくまで後に勝者側が描いたもの。実際は魅力あふれる人物だったという研究家も多い。
それ以上に驚くのは秀吉に伐たれたのは実は陰武者で、実際は生き延びているという見方あるだ。後に天海僧正として家康の冬の陣を助けたという説まである。そして光秀埋蔵金伝説が絡んでくる。生き延びた光秀は財をなして「護法救民のために宝を埋めた」という。
その護法救民の書の中に「身をも名も 惜しまねばこそ 松のみとりいろ濃き 弥生空 くちなは頭の影をふむ 岩戸苗のその下に こかね三百しろかね千貫」の歌が残っている。埋蔵地と考えられているのは、家臣の能見晴長が琵琶湖に沈めたという説と、元光秀の支城だった亀山城跡、京北町の光秀の菩提寺、滋眼寺近くに埋めたというものなどがある。

海猫小多八の埋蔵金(兵庫県)
【埋蔵額】=五万両
【埋蔵者】=小多八
【埋蔵時期】=文化年間
【埋蔵地】=洲本市由良
【背景】=愛媛県の項で取り上げている竜王丸にも関連するのが瀬戸内海で「海猫の小多八」と呼ばれた海賊の埋蔵金の伝説だ。
竜王丸の沈没の理由がもう一説あり、実は小多八が手下を使って船底に穴を開けたというものなのだ。後に竜王丸に積まれていたはずの藩の刻印打ち小判が出現。元をたどると、小多八の元から出たものとわかり、やはり小多八が沈めたこと判明したが、殺したと思い込んだ手下との争いやなにやらで宝の引き上げが露呈したもの。
小多八は住居とした淡路島の由良海岸に近い柏原山麓、中津川と相川の中間の海岸沿いに宝の一部を埋めていたという。そして後に、生き残った子分の子孫が発見、小判百枚と、黄金の延べ棒とともに絵図が現れ、分散した場所が描かれていたという。
ただ竜王丸の財宝とすれば五万両あまり、すべてを淡路島に運び出すのは困難なはずで大半は芸予諸島付近の無人島に隠した可能性が高いという説も。

尼子氏の埋蔵金(兵庫県)
【埋蔵額】=軍用金
【埋蔵者】=尼子氏
【埋蔵時期】=天正年間
【埋蔵地】=佐用郡上月町
【背景】=永禄九年、尼子氏は毛利元就に囚われの身となったが、家臣であった山中鹿之介らの、お家再興を期した活動が始まり、ついに信長の中国攻めの機会に秀吉の配下となり尼子氏は復活。しかし、信長軍と毛利軍の上月城を巡っての攻防戦で孤立。ついに鹿之介も最後を迎えるのだがそこに埋蔵金伝説がつたわっているという。
尼子主従がこの上月城に軍資金を埋めたというのだ。ただこれには異説もあり、敵方の本来の城主上月十郎景貞によるもの、という説だ。有名な赤穂浪士とはまた違った播州の主家再興を計る忠節の士、として描かれた鹿之助伝説の真贋は。
「朝日輝く夜招く 一本松の下を掘れ 黄金あり」。
(このページのトップに戻る)

☆滋賀県の埋蔵金

虫生の埋蔵金
【埋蔵額】=古銭三千九百枚
【埋蔵者】
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=野洲市中主町
【背景】=昭和四十四年、中主町虫生の改築中の宅地から壺が掘り出され中から古銭三千九百枚が出てきた。銭種は中国銭を始め寛永通宝まで。

蓮光寺の埋蔵金
【埋蔵額】=小判六十枚、一朱金百五十七枚
【埋蔵者】
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=近江八幡市加茂町
【背景】=天台真盛宗の蓮光寺で庫裏の建て替え中に白磁の壺を発見。中から文政小判六十枚、一朱金百五十七枚が入っていた。
(このページのトップに戻る)

☆三重県の埋蔵金

北畠国司の埋蔵金を発掘
【埋蔵額】=蛭藻金十枚、百一匁の黄金
【埋蔵者】=北畠国司の家臣か
【埋蔵時期】=天正年間
【埋蔵地】=松坂市垣鼻町
【背景】=伊勢街道沿いの古刹、信楽時にほど近い通称稲荷山から壺に入っていたと思われる蛭藻金十枚と純金の刀飾りなど百一匁の黄金が発見された。稲荷山は古墳の跡と思われるが、それとは全く時代が下り、この地の落ち延びてきた北畠国司の家臣、長野氏による埋蔵、または奉献の黄金ではないかとみられている。

南在家の埋蔵金
【埋蔵額】
【埋蔵者】
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=鈴鹿郡関町
【背景】=上洛しようとした伊勢平氏が霊山を迂回するため加太南在家の村人に間道を案内してくれたお礼と「おしきせんばなわせんば」という宝を村の有事に使うようにとの言葉とともにくれたものを埋めたという。

長者屋敷の埋蔵金
【埋蔵額】
【埋蔵者】
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=鈴鹿市広瀬町
【背景】=当地に住んでいた長者が「村が困ったら、この石の下を掘れ」といい残して宝を埋蔵した伝説。金敷という地名が残っている。

古墳から無文銀銭出土
【埋蔵額】=無文銀銭
【埋蔵者】
【埋蔵時期】=七世紀中期
【埋蔵地】=鈴鹿市加佐登町
【背景】=1976年7月、七世紀中期の横穴式石室を持つ第二号古墳から“和同開珎”よりも古い直径3センチの“無文銭”が発見された。当初は装飾品とみられたが、他の古墳よりも出土していることから銀銭と断定。

阿児の埋蔵金
【埋蔵額】
【埋蔵者】
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=志摩郡阿児町
【背景】=阿児町鵜方に伝わる黄金伝説。村が困ったときに掘れという言い伝えで、黄金の箕、鶏が埋まっているという。

長者屋敷の埋蔵金
【埋蔵額】=黄金の釜
【埋蔵者】
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=志摩郡磯部町
【背景】=磯部町沓掛には黄金の釜と金の鶏を納めた岩があるという。沓掛の民家が困ったとき、その鶏が飛んできて黄金を降らしてくれる。

的矢美作守の埋蔵金
【埋蔵額】
【埋蔵者】
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=志摩郡磯部町
【背景】=磯部町的矢には美作守が残した軍資金の伝説がある。再興の資金として「朝日さす夕日輝くその下に、黄金千両あり明の月」の歌が。

三林家の埋蔵金
【埋蔵額】=三万両
【埋蔵者】=三林氏
【埋蔵時期】=天正年間
【埋蔵地】=員弁郡東員町
【背景】=本願寺勢力に荷担する一揆軍を攻撃する信長に陥落させられた六把野城の城主、三林氏がお家再興を期して軍用金三万両を埋蔵、の古文書が残っている。

明和の埋蔵金
【埋蔵額】=慶長小判十五枚
【埋蔵者】=岩本家
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=多気郡明和町
【背景】=昭和三十四年、旧家の農業岩本家で自宅裏の藪の中から慶長小判十五枚を掘り出した。岩本家の先祖が万一を考えて埋めたものか。
(このページのトップに戻る)

☆京都府の埋蔵金

聚楽第の埋蔵金
【埋蔵額】=慶長小判七枚、一分金二十枚
【埋蔵者】
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=京都市上京区
【背景】=昭和三十年代、千本通りの聚楽第跡で水道工事中の作業員が慶長小判七枚、一分金二十枚を発見。

足利尊氏の埋蔵金
【埋蔵額】=八万両
【埋蔵者】=足利尊氏
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=船井郡丹波町
【背景】=丹波町字下山小字蕨にある大福光寺に残る言い伝えによれば四国に逃げる途上の尊氏が軍資金の埋蔵場所を「花の木の下八万両」と住職に言い伝えて去ったという。

坪井の埋蔵金
【埋蔵額】=黄金の鎖
【埋蔵者】
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=船井郡丹波町
【背景】=丹波町大字富小字坪井の神社の一角にある塚には黄金の鎖七ひろ半(約十三メートル)が埋められているという。

梅原家の埋蔵金
【埋蔵額】=古銭一万二千五百枚
【埋蔵者】=梅原家
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=綾部市寺町
【背景】=昭和二十七年、大本教の社殿建設現場で古銭を発見。中国銭六十三種、一万二千五百枚が出土。梅原家の言い伝えにもあったもの。

豊里の埋蔵金
【埋蔵額】=古銭二千枚
【埋蔵者】
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=綾部市豊里町
【背景】=豊里町福垣の旧家で屋敷の石垣を修理中古銭を発見。中国銭四十種、二千枚あまりが出ている。

金剛寺の埋蔵金
【埋蔵額】=黄金千両
【埋蔵者】
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=綾部市坊口町
【背景】=坊河内村(丹波)と市原村(丹後)の旧国境にかつては何鹿郡西国第二十五番札所の滝倉山金剛寺があって、「行けば左戻れば左、朝日輝き夕日照らす檐の木の下に黄金千両」の歌を彫った石像が。

菟原下の埋蔵金
【埋蔵額】=古銭六千三百枚
【埋蔵者】
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=天田郡三和町
【背景】=昭和四十六年、三和町菟原下小字久保で檜の植林中に古銭を発見。中国銭三十五種、六千三百枚が出てきた。

三山の埋蔵金
【埋蔵額】=古銭二百九十一枚
【埋蔵者】
【埋蔵時期】=室町時代中期から後期
【埋蔵地】=竹野郡丹後町
【背景】=昭和五十二年、丹後町字三山小字水林で土砂の採取中に古銭を発見。中国銭二百九十一枚。北宗銭がほとんどで開通元宝も入っていた。

黄金?の屋根瓦
【埋蔵額】=金箔の価値より骨董的価値
【埋蔵者】
【埋蔵時期】=安土桃山時代
【埋蔵地】=京都市伏見区、上京区、中京区
【背景】=昭和五十一年、京都各地で金箔瓦の発掘が伝えられる。埋蔵金とは若干異なるが骨董的価値で一点二十万円(当時)も。伏見区では伏見城に使われていた金箔瓦三枚、上京区から中京区にかけて二十点が発見された。漆で金箔を瓦に張り付けたもの。

1万枚を超す埋蔵銭
【埋蔵額】=南北朝時代の銅銭一万一千九百四十三枚
【埋蔵者】
【埋蔵時期】=南北朝時代
【埋蔵地】=京都府舞鶴氏北田辺
【背景】=平成八年、舞鶴市内で最も古い寺の1つとされる引土の円隆寺の門前から、地中に埋まっていた一万一千九百四十三枚という京都府北部では最多といえる銅銭が発見された。かつて当地は港の近くに位置し商いが盛んに行われていたといわれ、商いで財をなした豪族が埋めたものか。舞鶴市の文化財に指定された。

鞍馬から出土した渡来銭
【埋蔵額】=中国からの渡来銭八十七種、三万八千三百六十四枚
【埋蔵者】
【埋蔵時期】=南北朝時代
【埋蔵地】=京都府左京区鞍馬二ノ瀬町
【背景】=平成十年二月四日、裏庭の石垣を積み直すため庭木を掘り返して発見。大半が中国唐の渡来銭で、紀元前の古銭から一三一〇年の至大通宝まで八十七種、三万八千三百六十四枚を数えた。奈良時代に国内で和同開珎や渡来銭を模して鋳造された“模鋳銭”も含まれていた。かつては鞍馬街道の要衝の地だったといわれる。
(このページのトップに戻る)

☆奈良県の埋蔵金

弘法大師の埋蔵金
【埋蔵額】=金の鶏
【埋蔵者】=弘法大師
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=北市町
【背景】=弘法大師が掘ったという大井戸に金の鶏が埋められているという言い伝え。元旦にその鶏が鳴くとか。

杉山古墳の埋蔵金
【埋蔵額】=黄金の鶏
【埋蔵者】
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=奈良市大安町
【背景】=大安町杉山の杉山古墳には黄金の鶏が一番埋められており、元旦に塚から出て鳴くという。

西大寺の埋蔵金
【埋蔵額】=金貨二十五枚ほか
【埋蔵者】
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=奈良市西大寺
【背景】=昭和十二年、西大寺宝丘町から開基勝宝二十五枚、金塊一個、金の延べ板一枚、銀製盤二枚などを発見。真言律宗総本山があった所。開基勝宝は「幻の金貨」と呼ばれる日本最古の金貨で寛政六年に一枚だけ発見され、皇室の宝物となったが真贋が問われていたもの。

寺谷の埋蔵金
【埋蔵額】=古銭九百十四枚
【埋蔵者】
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=御所市葛重坂
【背景】=吉野山と金剛山の中間に位置する葛重坂字寺谷を開墾中に古銭を発見。開元通宝など九百十四枚。

朝日寺の埋蔵金
【埋蔵額】=黄金一千枚
【埋蔵者】
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=天理市佐保庄町
【背景】=当地の朝日寺の境内に「三つ葉うつぎ」という奇木があり、「朝日寺の三つ葉うつぎのそのもとに、黄金千枚後の世のために」の歌。

打木野長者の埋蔵金
【埋蔵額】
【埋蔵者】
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=吉野郡西吉野村
【背景】=西吉野村打木野にも三つ葉打木の言い伝えが残っている。「朝日さす夕日さす三つ葉打木のその下に、小判千枚後の世のため」。

守宮長者の埋蔵金
【埋蔵額】=小判千枚
【埋蔵者】
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=吉野郡下市町
【背景】=下市町広橋字中村の守宮山にある守宮塚に地元の長者が嫁に出したくなかった娘を小判千枚とともに埋めてしまったという。

谷家の埋蔵金
【埋蔵額】=大判、小判
【埋蔵者】=谷家
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=北葛城郡王寺町
【背景】=昭和四十二年、旧家の土蔵改修の際、床下から古丹波の壺が発見され、中から享保大判一枚、天保五両判、小判五十枚が出たという。
(このページのトップに戻る)

☆兵庫県の埋蔵金

下内膳の埋蔵金
【埋蔵額】=古銭一万二千七百枚
【埋蔵者】
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=洲本市下内膳
【背景】=昭和十七年、小学校の建設中に大壺に入った古銭を発見。鎌倉以降の五十五種、一万二千七百枚。下内膳遺跡と名付けられた

阿保親王の埋蔵金
【埋蔵額】
【埋蔵者】=阿保親王
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=芦屋市打出春日町
【背景】=当地にある古墳は阿保親王が村人のため、飢饉になったら掘るようにと、財宝を埋めたという。「朝日さす入日輝くこの下に、金千万瓦万枚」の歌も残っている。

中道子山の埋蔵金
【埋蔵額】
【埋蔵者】=孝橘氏
【埋蔵時期】=天正年間
【埋蔵地】=加古川市志方町
【背景】=赤松氏の一族、孝橘氏の居城、中道子山城は秀吉の播磨攻めで落城させられたが、その際財宝を埋蔵したという。「朝日照る、夕日輝く木の下に、瓦千枚、金千枚」。「八重が谷」との説も。

唐船島の埋蔵金
【埋蔵額】
【埋蔵者】
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=赤穂市尾崎
【背景】=瀬戸内海に突き出た唐船島沖で唐船が宝物を積んだまま沈没。千種川のたい積で埋まり現在は陸続きになってしまったという。

長尾山の埋蔵金
【埋蔵額】=古銭四十二枚
【埋蔵者】
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=宝塚市雲雀丘山手
【背景】=昭和十九年、開墾中の畑から皇朝銭が発見された。和同開珎、万年通宝、神功開宝など四十二枚。

安倉の埋蔵金
【埋蔵額】=大判五枚ほか
【埋蔵者】
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=宝塚市安倉北
【背景】=明治四十四年、畑の開墾中に金貨の詰まった大壺を発見。中から天正大判五枚、慶長丁銀、切銀などが出てきた。

堂坂遺跡の埋蔵金
【埋蔵額】=古銭十九万四千八百三十六枚
【埋蔵者】=珠光山宝山寺
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=宝塚市大原野中部
【背景】=中学校の運動場の整備中に少女が古銭を発見。大人達が探すと五つの壺に万年通宝などの皇朝銭、後漢の五銖銭などの中国銭など全部で十九万四千四百三十六枚と我が国二番目の量の古銭が発見されている。

青葉城の埋蔵金
【埋蔵額】
【埋蔵者】=恒屋氏
【埋蔵時期】=天正年間
【埋蔵地】=城崎郡竹野町
【背景】=竹野町字城山にはかつて恒屋氏の青葉城があったが、その恒屋氏が秀吉軍と水生城で戦い破れたとき、城守たちが財宝を埋蔵して逃げたという。「朝ひ夕ひ、七ひさす、おなだかもりの下に黄金の鶏を埋める。節分の夜、子の刻にこの鶏は一声鳴く」の言い伝え。

安田家の埋蔵金
【埋蔵額】=純金の十三羽の鶏
【埋蔵者】=安田家
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=城崎郡香住町
【背景】=香住町奥安木の安田家に伝わる埋蔵金伝説。先祖の奥安木城主安木和和泉守が秀吉の山陰攻めの時に落城させられ、その時埋蔵した。「朝日さし夕日輝く竹の元」に黄金の鶏十三羽。

生野銀山の埋蔵金
【埋蔵額】
【埋蔵者】=豊臣秀吉
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=朝来郡生野町
【背景】=生野町の一ノ谷の生野銀山に勘定奉行幡野三郎を使って多田銀山同様に軍資金を埋めさせたとういもの。

念仏堂の埋蔵金
【埋蔵額】
【埋蔵者】=千光寺住職
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=津名郡五色町
【背景】=五色町鮎原塔下の念仏堂は千光寺の住職が隠居した所で祠堂金を埋蔵。「もし千光寺が壊れ再建が難しいときは、この黄金を掘れ」と。

寺屋敷の埋蔵金
【埋蔵額】=古銭五万枚
【埋蔵者】
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=穴栗郡安富町
【背景】=安富町塩野字藤谷の通称寺屋敷の土地改良中に古備前の瓶を発見。中から開元通宝や紹定通宝など三十種、五万枚の古銭が出てきた。
(このページのトップに戻る)

☆大阪府の埋蔵金

日本橋の埋蔵金
【埋蔵額】=小判九十六枚ほか
【埋蔵者】
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=大阪市南区日本橋
【背景】=昭和四十九年、北陸銀行大阪南支店の新築工事中に地中から文政小判九十六枚、一分金、二分金合わせて二百四十三枚が発見された。

堂ヶ峯の埋蔵金
【埋蔵額】
【埋蔵者】
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=岸和田市積川町
【背景】=積川町橋宝はかつて和泉市池田の明王院の大念仏廻在寺院があったと言われるところで、堂ヶ峯に埋蔵金伝説が残っている。「朝日のあたる、夕日のあたる、清水の上のつつじの木の根かたに」の言い伝え。

袖取坂の埋蔵金/dt>
【埋蔵額】=小判千両
【埋蔵者】
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=岸和田市畑町
【背景】=畑遺跡で知られる歴史を持つ当地に「泉州畑町袖取坂で小判千両後のため」の言い伝えで埋蔵金伝説が残っている。

西琳寺の埋蔵金
【埋蔵額】=黄金の平瓦二枚
【埋蔵者】=西琳寺
【埋蔵時期】=天正時代
【埋蔵地】=羽曳野市古市
【背景】=信長軍に占領された西琳寺が直前に寺宝が没収されるのを防ぐため、黄金の瓦を持ち出そうとしたが間に合わず、井戸の中に投げ込んだという。井戸は五つあり、後に探したが発見できなかったという。

高石の埋蔵金
【埋蔵額】=丁銀四十三本
【埋蔵者】
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=高石市
【背景】=昭和三十八年、丁銀四十三本が掘り出された。

靫南通の埋蔵金
【埋蔵額】=小判百数十枚
【埋蔵者】
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=大阪市西区
【背景】=市電の軌道工事中に元文小判、文政小判百数十枚を発見。
(このページのトップに戻る)

☆和歌山県の埋蔵金

観音寺の埋蔵金
【埋蔵額】=黄金千枚
【埋蔵者】
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=和歌山市栄谷
【背景】=観音寺の後ろにある山の中に黄金千枚、甲冑が埋めてあるという言い伝えが残っている。

つむじ風剛右衛門の埋蔵金
【埋蔵額】
【埋蔵者】=剛右衛門
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=和歌山市友ヶ島
【背景】=瀬戸内海を荒らし回った海賊、つむじ風の剛右衛門。回船問屋という表の顔と、海賊という裏の顔を使い分けて荒稼ぎ。その財宝を埋めたという伝説。海猫小多八同様淡路島説もあるが、ここ和歌山にも。

亀島城の埋蔵金
【埋蔵額】=小判千両、大判万両
【埋蔵者】=br /> 【埋蔵時期】
【埋蔵地】=御坊市湯川町
【背景】=湯川町丸山の亀山城跡に残る埋蔵金伝説。落城に際して「朝日さす、夕日かがやくサルタの木の下に、小判千両大判万両」。

鳥屋の埋蔵金
【埋蔵額】=小判千両大判万両
【埋蔵者】
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=東牟呂郡古座川町
【背景】=古座川の支流の東岸にある鳥屋の森山に残る埋蔵金伝説。「朝日さす、夕日かがやくサルタの木の下に、小判千両大判万両」。

重畳山の埋蔵金
【埋蔵額】=金の瓦千枚
【埋蔵者】
【埋蔵時期】
【埋蔵地】=東牟呂郡古座町西何
【背景】=空海が開基といわれる神王寺がある重畳山、そこに「庵岩」と呼ばれる巨石があり、この石の場所に金の瓦千枚が埋まっている。
| このページのトップへ | 埋蔵金ポイントのトップページへ |

埋蔵金関連ニュース

埋蔵金の歴史&雑学

埋蔵金関連書籍

埋蔵金関連法律&法規

埋蔵金探査機器

金の科学

通貨・古銭

和暦年表

Treasure Japan Research

サイトマップ

ココログ版

Treasure Japan Research
「日本の埋蔵金」研究所へ