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◎埋蔵金関連ニュース<2002~2007年>バックナンバー

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中国で時価34兆円の沈没船を引き揚げ!

 埋蔵金とはちょっと趣旨が異なりますが、またまた沈没船引き揚げのニュースを。
 中国沿岸の南シナ海で、時価にしてなんと34兆円もの文化財を積んだ800年前の沈没船が引き揚げられたという。ちょっと巨額すぎてピンとこないかもしれないが、我が国の埋蔵金の代表ともいえる徳川埋蔵金など、発見されれば軽く兆の額にのぼるといわれる埋蔵金の例が多いのはご存じのはず。

 ま、現実的な比較をすれば、平成20年度から10年間の道路整備費が約60兆円というから、その約半分、5年分がまかなえてしまえるという計算になる。あまり良い比較ではなかったですか? ならば、(ニュース記事に対抗して)我が国の2008年度予算が約83兆円ですからそれの半分よりはちょっと少ない…ま、それはともかく沈没船の引き上げは、埋蔵金探しよりはよほど効率の良い“事業”であることだけは確かでしょう。

 国内では一番大々的に報道していたスポーツニッポンの記事で概要を紹介しておきます。もともとは新華社通信の配信みたいで、中国系のWEBサイトではまさに“蜂の巣をつついた騒ぎ”になっていたことも付け加えておきます。しばらくは検索をかければ続々と引っかかるはずです(中国語が読めれば…の話ですが)。

--2007年12月23日付けスポーツニッポン紙より--

中国で引き揚げ
34兆円宝船
800年前沈没 文化財8万点眠る!?
広東省陽江市沖

 中国広東州陽江市沖の南シナ海で22日、約800年前に沈没した貿易商船が引き提げられた。船内からは既に金ぱくを張った腕輪や、陶磁器など約1万点以上が見つかっている。船内には約8万点の“お宝”が残っている可能性もあり、研究者も「文化財の価値は3000億ドル(約34兆円)」と試算。歴史的発見に鼻息を荒くしている。
 約800年の眠りから目覚めたのは、南宋(1127~1279年)時代に沈没した貿易商船「南海1号」。破損防止のため水中で船全体をコンテナに収め、巨大なクレーンでつり上げる「世界初」(中国当局)の方式を採用。総重量約3400キロのコンテナが海面にまで引き揚げられると、作業を見守っていた関係者らは大きな拍手で出迎え、爆竹を鳴らして成功を祝った。
 調査チームが行った事前の潜水調査では、船内から金ぱくを張った腕輪やベルトといった当時の装飾品や、景徳鎮(けいとくちん)の陶磁器など1万点以上が発見されており、調査に当たっている広東省考古学研究所は「船内には財宝などの文化財6万~8万点が残っている可能性がある」と指摘した。

費用は46億円超

 文化財の価値は総額3000億ドル(約34兆2500億円)に上るとの試算も。この額は韓国の来年度の国家予算(31兆9000億円)を軽く上回る金額で、中国メディアによると政府は、このプロジェクトに3億元(約46億4000万円)を投入。発見された品々がいかに貴重であることがうかがえる。
 共同通信によると南海1号は1987年、広東省広州当局と英国の海洋調査会社が陽江市の沖合で別の沈没船の調査中に偶然、発見された。同省考古学研究所などによれば船長約30.5メートル、幅9.3メートルで宋代としては最大規模。沖合約20カイリ(約37キロ)、水深約20メートル付近の海底でほぼ原型を保ったまま沈んでおり宝の保存状態も良好だという。

--以上スポーツニッポン11版社会面から--

 中国系のサイトには写真を載せているところも多いので、それらを見ていただくと分かるが、まさに船ごとそっくりコンテナに入れて引き揚げを行っている。それだけ沈没船の状態が良かったと言うことなのだろう。海底でほぼ船のままの形状を保っていたらしい。で、来年からは同市に建設中の「海のシルクロード博物館」で一般公開するとこのとなので、時間と懐具合の良い方は是非中国まで見学ツアーにお出かけください。貴重な体験になることでしょう。

 沈没船や魑魅魍魎の棲む“永田町の埋蔵金”などじゃなくて、本物の埋蔵金発見のニュースをたまには載せてみたいものですね。
--2007年12月26日

二転三転の末、石見銀山が世界遺産登録

 まさに二転三転、まあ、結果は世界遺産に無事登録されたのだから良しとしよう。
 石見銀山の世界遺産登録騒動だ。当サイトでもとっかかりで紹介した以上、その三転した結末をご紹介しておこう(それにしても三回も取り上げることになるとは思わなかったが…)。

 ユネスコが指定する世界遺産に登録されるには、世界21ヵ国の代表で構成される“世界遺産委員会”で審議され「これは世界に誇れるものだ」とのお墨付きを得なければならない。で、その“世界遺産委員会”は自分たちで調査するわけではなく、ユネスコの諮問機関である“国際記念物遺跡会議”(これがイコモス「International Council on Monument and Sites」略して“ICOMOS”と呼ばれる組織だ)に丸投げして、ここでの判断が実質的に遺跡指定の可否を決定づけることになっている。

 で、いったんは石見銀山の世界遺産登録に“延期”の判断をイコモスに下されてしまったため、“二転”したというのが前回の報告内容だった。

 その後、何があったのか? 本当のところは一部の当事者のみ知る、だが、それまで世界遺産登録を強力にバックアップしてきた政府関係者の“根回し”が功を奏したというのが事実のようだ。世界遺産委員会のメンバー国代表に対して積極的なアピールと説明を行い、特に石見銀山が稼働当時から植林を行うなど「環境に配慮した類い希な産業遺跡」という点を評価してもらったらしい。

 で、めでたくこの6月28日、“石見銀山遺跡”が国内14件目の世界遺産(文化遺産では11件目、他に自然遺産が3件)に登録決定したというわけ。とりあえず世界遺産登録おめでとうございます。
--2007年7月1日

英国南西約60キロの大西洋で“史上最高額”の沈船財宝を発見

 '97年7月31日付けの朝日新聞夕刊に、気になる記事が載っていたので紹介しよう。
 一部スポーツ紙やWEBニュース等で紹介されていたのでご存じの方も多いかと思うが、米国の企業が英国南西約60キロの大西洋で“史上最高額”と思われる財宝を発見したという。情報の発信元はどうやらAFP通信のようだが、各紙やWEBサイトが伝えたニュースの概要はおおむね次の通り。
『米国フロリダ州タンパの海洋探査を専門とする“Odyssey Marine Exploration”という企業が、17世紀の難破船と推定される沈没船の残骸から、数100枚の金貨を始め約17トン(約50万枚)にも上る銀貨などを発見した』。

 沈船の財宝に関しては当サイトのテリトリー外で、一門外漢にすぎないが(埋蔵金と沈船の財宝の根本的な違いは当NEWSのコーナー等でもたびたび言及しているのでご参考に)、やれ「お宝発見!」とか「史上最高額の財宝!」などと一部で話題になっているので取り上げておこう。
 で、さらに各ニュースによれば『この沈船の財宝が伝えられたとおりであれば、1985年にフロリダ沖(こちらの地域はまさに沈船サルベージの名所)で1622年に沈没したスペイン船から回収された財宝約4億ドルを抜いて約5億ドル(約600億円)にのぼり“史上最高”の記録となる』とか。

 ニュースでは以上が情報の全てのようなので、本家本元、その海洋探査企業“Odyssey Marine Exploration”社のWEBサイトを覗いてみた。“Odyssey Marine Exploration”社は1994年に創立され、今回のような沈船の財宝等のサルベージを主に行い、アメリカの証券取引所にも上場されている注目企業でもあった。

 WEBサイトのトップページに今回の発見のニュースを伝えるトピックスがのっており、さらに彼らが“Black Swan”とコードネームを付けた今回の沈船に関するページに飛ぶと、そこで紹介されいたのが、まさにAFPが発信元と思われるニュースとほぼ同じ内容のさらに詳しい紹介記事が載っていた。

『ODYSSEY'S LATEST SHIPWRECK FIND YIELDS OVER 500,000 SILVER AND GOLD COINS
World's Largest Historical Shipwreck Coin Recovery Produces Record 17 Tons of Silver Currency』
(“Odyssey Marine Exploration”社のWEBサイトより)
--の見出しで、
『フロリダ州タンパにある海洋探査専門企業“オデッセイ社”は、この分野のリーダー的存在で、今回、大西洋の詳細が公表されていないある現場で“ブラックスワン”と名付けた“コロニアル期”の沈船を特定、考古学的な調査と予備の発掘を終了した。この現場からは17トン以上の重さがある50万個以上の銀貨、何100個かの金貨、加工された金塊などが発見された。これらの財宝はサルベージ関連法や海洋法に則って回収されたもので、いかなる国からも主権が及ばないものと信じています』(概要)。

 巷をめぐったニュースでは“財宝発見”の面ばかりが取り上げられてしまっているが、沈船の発見は財宝ばかりでなく、難破した時代を甦らせる様々な遺構や情報が得られるタイムカプセル的な意味合いも大きいことを付け加えておこう。
『「私たちの研究では、この現場が“コロニアル期”に多くの船が難破した地域であり、この地域の状況を徹底的に分析し、記録を残すことに意義があると考え慎重に作業を進めています」(同社の創業者の一人ジョン・モリス氏)』。

 テリトリー外の話題ではありましたがご参考までに。“Odyssey Marine Exploration”社のWEBサイトへのリンクは張りませんので、ご自分で検索を(当ベージの一番下にGoogleの検索窓がありますので、そこに社名を入れれば簡単にたどり着けるはずです)。
--2007年5月24日

「石見銀山の世界遺産登録」に暗雲

 先日お伝えした「石見銀山が世界遺産登録へ」のニュース。
 どうも風向きが怪しくなってしまったようだ。すでにマスコミでも報道しているのでご存じだろう。推薦していた文化庁から発表があり、世界遺産に登録するかどうか、を検討していた(実質、決定権を握っているといわれる)“イコモス”というところが石見銀山の登録に難色を示しているのだとか。まあ、世界中思いがけないところでも“世界遺産”に出くわす現在の状況からすれば、今後“お墨付き”はなるべく控えたい、ということなのだろう。

 ちなみにこの“イコモス”というのは「International Council on Monument and Sites」略して“ICOMOS”。国際的な非政府組織でユネスコの諮問機関を努めている団体だ。別に世界に誇れる遺産と認めてくれなくてもかまわないんじゃない、と門外漢は単純に思ってしまうが、地元にしてみれば“お墨付き”があるか無いかで観光資源のランクは雲泥の差。

 変に観光地化しない方が“研究者”としては当然好ましいのは言うまでもないが、地元の方々のこれまでのご苦労を考えると、何とか登録させてあげられないのでしょうか。

 とりあえず、「石見銀山世界遺産登録へ」のその後の経過報告でした。
--2007年5月15日

多田銀山の下調べに!? “銀山ネタ”のニュースです。

 埋蔵金探索者にとっては銀山といえば“多田銀山”につきるのだろうが、
 西国で一二を争った我が国有数の銀山だった“石見銀山”のニュースをお伝えしよう。
 このところ、この石見銀山の話題をあちらこちらで耳にすることが多い。というのも実は訳があって、その理由は、島根県が県を挙げて石見銀山を世界遺産に登録しようという運動がいよいよ佳境にさしかかっているからなのだ。このまま順調にいけば今年の7月には実現するのだとか。
 すでに世界遺産登録へ向けてラストスパートというところで、そこら辺の事情は、島根県による詳細な説明が載せられたWebサイトが出来上がっているのでそちらを見ていただければ一目瞭然だ(ちなみにこのページの一番下の検索窓に“石見銀山”“世界遺産登録”のキーワードを入れて検索をかけていただければすぐにたどり着けるはず。「Internetから検索」の方にボタンを切り替えるのをお忘れなく。2007年3月2日現在)。

 で、関連の最新ニュースとして、その石見銀山へ“何か埋蔵金ネタはないかな?”と調査(それとも単に銀山見物!?)に出かけようと思っている方には好都合というか、面倒くさくなるというか、実際に現地に出かけてみなければ何とも言えないニュースなのだが…。島根県大田市ではこの4月16日から、世界遺産登録を検討している“保存地区内”では一般車両の乗り入れを禁止して、指定の駐車場に駐車させ、そこからは専用の送迎システムをりようしてもらう、といういわゆる“パーク&ライド”システムを取り入れるという。
 地元大田市が新たに250台受け入れ可能な“第3駐車場”などを設置、保存地区内の観光センターや銀山公園駐車場などは、住民や地元事業者のみの利用とし、一切観光目的の車両を閉め出すという。ちなみにすでにこの“パーク&ライド”は昨年の連休に3回試験的に行われて問題点等を検討済みなのだとか。

 3月1日付けの毎日新聞のニュースでは、
『--前略--保存地区南約3キロの同公園の既存駐車場を乗用車104台とバス11台が駐車できるよう再整備しており、敷地内に第2駐車場(28台)も整備中。さらに、同公園から約300メートル東の県道沿いに、民間企業から借地し約250台の駐車場を新設、計400台を収容可能にする。
 同公園から保存地区に向かう路線バスは、1区間200円の川本線(5便)と大森大家線(8便)を組み合わせ、大型連休中は割安になる1日券の発売も検討。観光目的の車両には、平日は看板で注意を促し、混雑するゴールデンウイークや4~11月の土日と祝日は警備員や市職員、地元ボランティアらが誘導する。--後略--』

 ちなみに一番気になる利用料金に触れてないので、実際に調査に出かけようと思っている方は事前に現地へお問い合わせを。また、石見銀山の世界遺産登録関連の情報は、“島根県教育庁文化財課世界遺産登録推進室”まで(これまた勝手に電話番号等を書けいないのでキーワードにて検索を)。
 銀山だけなら興味ない、などといわずに多田銀山探索の“下調べ”として石見銀山に出かけてみてはいかがでしょうか。さすがに世界遺産登録を目指しているだけあって、力の入ったWebサイトを眺めているだけでも当時の銀山の概要が良く分かるなど、得るところは多いはず、のニュースでありました。
--2007年3月2日

水野氏の徳川埋蔵金探索がドキュメンタリー映画に!

 我が国の埋蔵金を代表する赤城の“徳川埋蔵金”。
 埋蔵されていると予想される額の多さ(一説に360万両)もさることながら、三代に渡ってその埋蔵金を探し続けている人間がいるという事実の重みに圧倒される方も多いのでは。
 で、なんとこの赤城の埋蔵金探索の一部始終を映像に収めた作品が完成、公開された。“エンターテインメント・ドキュメンタリー作品”というジャンルになるそうなのだが、タイトル名は『あたえられるか否か~徳川埋蔵金120年目の挑戦~』(2006年カラー作品/ドキュメンタリー/82分/VIDEO)。出演は、赤城の埋蔵金探索にあたっている三代目、水野智之さん。そして埋蔵金探索に協力する方々など。撮影、編集、監督を努めたのはなんと3年間にわたり水野さんに密着して記録したという安部一世さん。プロデューサーは宮本高志さん。音楽が「HiT ThaT Jive!」。配給はワイヤーワークス。公式Webサイトhttp://wireworks.jp/maizokin/
 で、この映画が公開されたのは情報発信地、東京渋谷でも特に“とんがっている”ことでおなじみ、“多様性=diversity”をコンセプトとするUPlinkギャラリーの中にあるUPlink Xと、大阪ではシネ・ヌーヴォXにて。

**********以下公式Webサイトより転載**********

■作品概要
 徳川幕府の末期、時の大老 井伊直弼の命により群馬県赤城山中に埋められたといわれる御用金360万両。明治16年以来、祖父子三代120年に渡りこれを探索し続けている水野家。15年ほど前、TBS「ギミア・ブレイク」で放送され、大反響を呼んだことで記憶されている人も多いのではないでしょうか。

 本作品は、現在の水野家当主、水野智之の埋蔵金発掘事業を、監督自身が(水野氏の家業の看板制作を手伝いながら)赤城山に住み込み、3年にわたり撮り続けたドキュメンタリー作品です。

 物語は、水野氏が「全ての謎は解けた」という発掘ポイントを指し示すところから始まります。強烈な個性を持つ水野氏の埋蔵金発掘事業を軸に、祖父子3代の発掘の歴史、一攫千金を夢見て赤城山にやってくる人々、水野氏の仲間が集い、紆余曲折を経て開始する10年越しの発掘…と物語は進行していきます。

 ともすれば馬鹿げたようにも見えるこの事業を、3代にわたり追い続けなければならない宿命を背負わされた水野氏自身の哲学・生き方に焦点を当て、なぜ埋蔵金を掘り続けるのか? そして発掘することにどういう意味があるのか? というテーマを解き明かしていく、エンターテインメント・ドキュメンタリー作品です。

***********以上公式Webサイトから***********

 あまりに有名な赤城の“徳川埋蔵金”だが、映画というカタチで記録されたことで、誰もが埋蔵金探索のひとつの典型的なケースを身近に知ることが出来るようになったといえる。
 本来、埋蔵金探しは人知れず行われてきている。発見の可能性が高ければ高いほど、より人に知られずに、だ。その意味で、三代に渡って埋蔵金探索を続ける水野さんの例はあまりに“異例”といえるだろう。水野さんご自身による数冊の著作物や、例の糸井重里氏らによるTV番組プロジェクトなどでも大々的に公開、紹介されてきた。
 ただ、そうして外部に漏れ出た多くの情報をもってしても、それはその時、その場所で起きた事象という一断片でしかない。人に知れようが、知れずともが、肝心なのは実際に埋蔵金を見つけ出すことで、現実にはそれこそ探索者の数だけ物語が展開されており、様々な人生を今現在も描き続けているということを付け加えさせていただこう。

 なにはともあれ貴重な映画、多くの方に見ていただけることを期待したい。

 ちなみに監督の阿部さん同様に、水野さんの家業の看板制作と埋蔵金掘りを手伝える方を若干名募集しているそうだ(2006年10月上旬現在)。阿部さんのように住み込みで看板制作を手伝いながら、埋蔵金探しにも協力することができるという。ただし給料は“ボランティア”で、とのことですので悪しからず。
 もともと埋蔵金探索では協力部隊は“顎足は自前”が原則。掘り当てられれば分け前に与れるのは事前の相談次第ですが…。
--2006年10月3日

“木簡”とともに発見された埋蔵銭11万枚

 5月19日付けで多くのニュースサイトが競って報道していたのでご存じの方も多いと思うが、
 福井県の寺の裏山から11万枚あまりの銅銭が詰まった大甕が発見された。
 ニュースを見逃した方に概要をお伝えすると…、
『福井市田ノ谷町の大安寺で、甕に入った古銭約11万5千枚が発見された。同時に「明應九年」(1500年)と書かれた“木簡”も発見された。
 福井県文化財保護センターの発表によると、寺の裏山の猪よけの柵を直しにきていた檀家の男性達が、偶然に斜面から甕の口がのぞいているのに気づき発見したもの。
 甕は口径が約50センチ、高さが約70センチの甕で、中に入っていた銅銭は“永楽通宝”をはじめ“元豊通宝”、“皇宋通宝”など中世に国内で流通していた50種以上で、約100枚ずつ藁でくくられた状態で詰められていた古銭は現在の貨幣価値で計約700万円という』。
 以上概要だ。5月19日付けで一斉に報道されたのでホットニュースかと思ってしまった方もいるかも知れないが、発見自体は4月の12日のこと。発見後、福井市の文化財保護センターで詳細な調査が行われ、ほぼ全容が判明したということでこの時期に正式発表となったというもの。
 この埋蔵銭の発見で注目される点は2つ。まずはその量の多さだ。福井県内で埋蔵銭が発見された例としては越前市森久町の水田から発見された約3万3千枚や一乗谷の屋敷跡からの約3万枚などがあるが、これらを軽く上回り県内では過去最多とか。
 ただ上には上で、大量の埋蔵銭の出土例が多い東日本では、北海道函館市での約37万枚、石川県小松市の約28万枚、新潟県湯沢町の約27万枚などと桁違いに多い。これらのケースで「約」としているのは銅銭の場合長期にわたる地中環境で錆びつき固着“銅塊”となってしまっていることが多いからだ。今回の場合は保存状態が良く、正確な枚数も出ているはず(この時点で全国で12番目とか)。
 それはともかく、もう一つの注目点の方がより重要だろう。それは銅銭と同時に“木簡”が発見されたということ。その“木簡”には「明應九(1500)年七月吉日」という日付と埋めた人物の名前と思われる文字、花押があったという(文字はまだ判別できていないようだ)。このように埋蔵された年代が正確に判明している例は極めて少なく、貴重な資料の発見といえる。ちなみにこの“木簡”から埋蔵されたのは、現在の大安禅寺が建立される以前、当地にあったといわれる田谷寺(泰澄が開いた密教寺)が信長により焼失させられる70年余り前のこと。
 埋蔵理由に関しては「こうした埋蔵銭には、当時、寺が金融機関の役割を果たしていたことに伴う“備蓄銭”としての可能性や、祈願目的で埋めた“埋納銭”の可能性があり、現状では断定できない」(福井市文化財保護センター)とか。いずれにせよ埋蔵年月日が正確に判明したことで古銭の研究家には良質な資料ができたことだろう。
--2006年5月19日

毛利家ゆかりの“黄金茶碗”が発見されたという。

 3月21日の朝日放送系のTV番組“スーパーモーニング”の中で
 紹介されていたというからご存じの方も多いだろう。“発見”に至った経緯を一番詳しく紹介していたと思われる朝日新聞の記事で見てみると、
--以下2006年3月21日朝日新聞朝刊社会面--
『毛利家ゆかりの「黄金茶碗」発見
 長州藩主の毛利家ゆかりの黄金茶碗が、奈良市水門町の寧楽美術館に保管されていることがわかった。幕末から明治維新の動乱期に多額の借金を抱えた毛利家が、その返済軽減に協力してくれた大阪の豪商・広岡久右衛門に褒美として贈ったものという。
 同館は23日~26日に特別展示する。
 茶碗は直径12.6センチ、高さ7.5センチ、重さ役300グラムで、木の芯に純金が貼り付けてある。同館設立者の故中村準策氏が昭和初期に広岡家から購入。これまで公開せずに保管してきた。
 同館は今年2月、大阪市史料調査会の野高宏之氏らに調査を依頼。茶碗の箱のふたなどに「明治元(1868)年11月、借金の交渉にあたって毛利公が広岡久右衛門に贈るように言われた」と記され、毛利家に伝わる「長州献上拝領帳」にも同様の記録があった。
 野高氏によると、長州藩は当時、幕府軍との戦いで財政が悪化し、藩主の毛利敬親が借金をしていた商人らに利子軽減や返済期日延期を求めた。毛利家と懇意だった広岡久右衛門がその交渉役を引き受けたという』
 まあ、この朝日新聞の記事をはじめ多くの報道の内容から判明するのは“発見”と言うよりは“初公開”というべき内容のニュースだったということ。ただ、こういったある意味“埋もれた”文化財なりお宝が広く一般に公開されるのは嬉しいことで、秘蔵されてごくごく少数の人間しか実物を見ることが出来なくなったり、良くあるケースでは“学者”の方々の“専有物”的な扱いになってしまわなかった事を素直に喜びたいと思う。今後も定期的に公開していただきたい。
 ちなみに毛利家の埋蔵金の伝承というのは意外に少ない。逆に毛利と対立した尼子氏の家臣、山中鹿介が永禄年間に尼子再興をめざして立ち上がったが、毛利との闘いで無念にも敗走、その時に大根山山中に軍資金を埋蔵したという能義郡広瀬町の“白南天の元の埋蔵金”や、これまた毛利勢に攻められた銀山城の武田信実が落城に際して埋めたという広島市安佐南区の“金の茶釜伝説”などなど毛利に反旗を翻した側の埋蔵金伝説のみが多く残っている。ちなみにこちらも目印は“白南天”とか。
 しっかり者のイメージの強い毛利家には埋蔵金などという“夢物語”は似合わないと言うことか。はたまた、戦国時代から幕末まで生き残った勝ち組には“伝説”として後世に残るような逸話が出来る機会がなかったのか…。
 それはともかく、黄金の茶碗自体は別に珍しいものではなく、戦国時代以降多くの名品が知られている。特に有名なのはまさに黄金のイメージにピッタリの人物、豊臣秀吉が残した黄金の茶碗「金天目」だろう。京都伏見の醍醐寺に伝来する、太閤が日々愛でたという黄金茶碗で、直径12.6センチ、高さ5.8センチ、今回の毛利家の黄金茶碗同様木の芯に金が貼ってある。
 黄金の瓢箪の馬印や黄金の茶室、はたまた黄金の瓦など太閤の黄金好きはつとに有名だが、権力者ならば誰でも黄金の輝きを日々身近に眺めていたい、というのは変わらぬ事のようだ。

※展示された黄金茶碗の箱書きと添え書き文書
<箱書き>
   『明治元年戊辰十一月
    長州様御政府方
    山形弥八殿・白根多助殿
    御上坂。御銀談ニ付被為
    下置候旨、御達
    正饒  拝領之    』
<添え書き>
   『一、黄金御茶碗一
    広岡久右衛門
        右
    御意、数年来御用向
    被仰掛候度々尖ニ
    遂、其節
    御太慶被思召候。猶又
    此度難題之儀被仰
    聞候付而ハ、別而出精
    御為能様可申談候。
    依之格別之筋を以
    一御書(前書カ)通拝領被
    仰付候事。        』


“山下財宝”発掘スポンサー募集

 フィリピンで埋蔵金発掘事業に携わる方から、スポンサーを募集する呼びかけが届きました。
 国内の埋蔵金をテリトリーとする当Webサイトの守備範囲外ではありますが、興味のある方にご参考までに。
 その呼びかけとは…、以下原文のままでご紹介します。
******************************
『スポンサーを募集します』
 私は、フィリピンで“山下財宝”を発掘している者です。現在発掘中の現場は計六ヵ所にのぼります。今年一月に、発掘資金の調達のため帰国しました。
 帰国直前、私の現場に一人の現地人が訪ねてきました。その人は朝鮮人のおじいさんを持つという人で、そのおじいさんは元日本軍の軍人と一緒に埋蔵に携わった方だといいます。かつて発掘を行ったこともあったのですが、その時は地震に遭い半ばまで掘った穴が埋まってしまったそうです。その後、穴の上には家が建ってしまいずっとそのままになってましたが、最近発掘を思い立ち、その家の移転費用と発掘そのものの資金を目当てに知人を頼って私のところに来たそうです。
 メタルボックスで十六箱、一箱三十本、計四百八十本、一本が二十五キロですから十二トンの埋蔵量だったそうです。これ以上の詳しい話はここでは明かせませんが、今度私のスタッフ二名が現地に行って調査検討する予定です。
 今回スポンサーを募集する現場は二ヵ所で、一ヵ所はユンボを導入して発掘中です。機械による作業である程度の目安が付いたところで、その後マンパワーで横穴に移ります。もう一ヵ所は、マンパワーで発掘している現場で、現地人十五名が現在作業に当たっています。この現場からはほとんど毎日のように、皿などの陶器の欠片や人骨、アスファルトの固まりなど物証が出てきております。
 この二ヵ所のスポンサーをそれぞれ募集します。私は募集するスポンサーは一ヵ所一名様と決めております。これは、発掘時の権利を確定するためで、他の方々が行っているような複数のスポンサーによる出資では発掘後利権争いになる可能性が高いことと、ハイリターンが望めないという点から決定させていただいております。この条件でも可能な方に協力をいただきたいと思います。
 大型機械を購入、発掘に機動力を導入したことでこちらの運営費用も大幅に増えたことなどからも新たな資金が入用となりスポンサーを募集することにいたしました。詳しい内容につきましては事の性格上、直接お会いしてご説明したいと思います。
◇連絡先:03(XXXX)XXXX ジェネラル山下
(番号はいたずら電話等の対策のためサイト管理者が伏せました)
******************************
 以上の内容の文面です。当Webサイトとこの方とは一切の利害関係はありませんし、また法的な責任関係もございません。その点は念のため特にお断りしておきます。
 ただ、これを読んでいただき興味を持たれた方は当Webサイト宛にメールでご連絡いただければ、そのまま転送させていただきます(日本の方です。秘密厳守いたします)。こういった内容の呼びかけをする場が無くて困っている方に少しでもお役に立てれば、という判断から掲載致しました。全ての判断、決断はご自身の責任にてお願い致します。(2004年2月3日)

「“金の小判ちゃん”がつまった千両箱」登場

 群馬県の株式会社コスモスという会社から楽しいお年賀が届きました。
 なんと送られてきたのは“千両箱”でした。といっても写真でご覧の通り、 お菓子なのです。「縁起の良い、景気の回復と幸福の達人“景気回復 金の 小判ちゃん”」というお菓子だそうです。
 千両箱の中に入った“小判”ですから当然ながら小判の型をしていました。 しかし、こだわりはそれで終わりじゃなく、パッケージを破ると小判のお菓子の上に はなんと本物の金粉が散らされている!というまさに楽しい気分とありがたみに 包まれたお菓子だったのです。
 そして、ここからが“皆様、特にご注目!”なのですが、パッケージに入っていた 説明文に見慣れたお顔が。そう、水野智之さんが「小判ちゃんにまつわる物語」として 徳川埋蔵金の解説をしているのです。「水野さんが教える埋蔵方法」3ヵ条もあったり で、なかなか注目でしょう。ただの小判の形をしたお菓子というだけなら、おいしく いただいておしまい(!?)だったのでしょうが……。
 楽しいコーヒー・ブレークでした。ありがとうございました。
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おなじみ、水野智之さん。『徳川埋蔵金の謎は九十%は解明した。あとは発掘されたら 残りの十%の謎が解明されるでしょう』と。

「旧日本軍の財宝」伝説

 アジアの新聞特派員にとっては、なんだかネタに困ったときの“定番”
 となっている感もあった「旧日本軍の財宝」記事。このところご無沙汰で、久々に目にしたのでこちらも久々に取り上げてみた。
 その記事とは2003年10月15日付けの朝日新聞朝刊に載ったコラム風コーナーの“特派員メモ”。シドニーから、となっていた。
 以下、紙面より。
『旧日本軍の財宝
 浮かんでは消え、消えてはまたぞろ浮上する。「日本軍の財宝」伝説である。
 パプアニューギニアの離島で最近、「旧日本軍が隠した大量の金塊が見つかった」という話が持ち上がった。財政難に苦しむ政府は「本当ならラッキー」と調査隊を送り込み、地元は「よそ者には渡さん、村で山分けだ」といきり立つ。てんやわんやだ。
 現地の事情通は「またですか」と冷ややかだが、ひょうたんから駒もあるから、はなからバカにはできないけれど、この種の話には「カーゴ・カルト(積み荷崇拝)」が関係しているのかもしれない。
 かつて西欧による植民地支配を受けたメラネシアなどには、カーゴは神々がもたらす「外来の富」であり、白人が豊かなのは、そのカーゴを途中で横取りしているからだとの思いが広まった。しかし、神に祈り、熱い思いで待っていれば、いつか必ずカーゴが届けられる-。
 カーゴが「日本軍」と結びつくのは、この一帯が太平洋戦争の激戦地となり、人々の記憶に、西欧植民地勢力の来島と同じくらいの衝撃が刻み込まれたからではないのか。そう言えば、フィリピンでも旧日本軍の「ヤマシタ財宝」伝説が浮かんでは消え、消えては浮かんで、何十年にもなるなぁ。         (大野拓司)』
 以上、紙面から。
 最近の“旧日本軍の財宝”の話題として目立ったのは、21世紀の幕開けとともに伝わってきたタイ西部のカンチャナブリ県での「ニセ国債」事件。山中の洞窟に旧日本軍の財宝らしきものが、ということでタクシン首相も駆けつけた、という大騒動が記憶に新しい。
 現場はミャンマー国境付近で有名なクワイ河鉄橋にも近く場所的にも“山下財宝”にぴったり。で、首相まで巻き込んだ“事件”だけに米国企業の探査衛星まで導入する盛り上がりだったとか。ただ、発見したのが金塊ではなく実はアメリカが金との交換を約束する兌換券や債権の類で250億ドルあまり。ま、それでも“本物”だったら国家財政を潤してくれ万々歳だったのだが、なんと真っ赤な偽物。またまた“山下財宝”のデマ説を勢い付けてしまった。
 1995年のフィリピンのルソン島での“旧日本軍の2トンのプラチナ”事件もフィリピン法務省と国家捜査局までを巻き込んだ末に「実は鉄でした」というお定まりの結果となっている。
 今回の記事で新しいのは“カーゴ・カルト”というキーワード。この“カーゴ・カルト”というのは、記事中にもあるとおり主にメラネシアで信じられている“積み荷信仰”と呼ばれるもの。「いつの日にか祖先の乗った船が、財宝や食料、衣類などを満載して到来する」という千年王国運動にも関連する一種の宗教的認識がベースとなっている。20世紀の初頭、ヨーロッパからの侵略を受けることになったのもこの“カーゴ・カルト”の存在があったからとも言われているという。
 確かに“騒動”にまで発展してしまうにはそういった背景もあるのだろうが、“旧日本軍の財宝”そのものには一切関係がないので念のため。“デマ説”や“詐欺行為”ばかりじゃなく、いよいよ“カルト”にまで結びつけられてしまうとは…。
 歴史的事実の調査や現地探索をくり返し行っている方を身近に知るだけに、もういい加減にして欲しい、が実感。ただのデマや噂だけで国レベルの機関が動くわけがなく、それなりの背景があるので結局はだまされてしまう。その背景をすべて解き明かし“戦後”をきちっと終わらせることが肝心なのでは。

“純金の千両箱”を発売。

 金貨や金地金の販売でおなじみ田中貴金属工業が2003年10月6日から“純金の千両箱”の発売を開始した。
 お値段は、金価格1g1,500円の相場で計算して約1億円! 限定2個の発売で本体はもちろん鍵や金具まで純度99.99%の純金製。重量は約36kg、サイズは幅32.1cm×奥行き19cm×高さ11cm。もちろん箱だけじゃなくて中身もびっしり詰まっているが、残念ながら(!?)小判じゃなくて1オンス金貨が500枚。1オンス=31.1035gとして15,551.75g。グラム当たり1,500円で計算すると23,327,625円。同様に千両箱の総重量約36kgを金価格に換算すると54,000,000円。じゃ残りは? 「加工代になります」(田中貴金属工業さん)。
 10月7日現在でまだ購入者は現れていないそうだが、この2個が売り切れてしまっても「約3ヶ月お待ちいただければ同じ物をお作りいたします」(田中貴金属工業さん)とこのとなので、ご安心を!?
千両箱_ph01 千両箱_ph02
 純金千両箱もいいけど隣の12.5kgの“ラージバー”の方がいい! という方も多いのでは!? ちなみにこちら18,750,000円。純金千両箱はこのラージバー3本を使って作られていることになるそうです。閑話休題でありました。

フィリピン在住の小野寺さんという方からWebサイト宛にご連絡を頂きました。

 その概要は以下に紹介するものです。
 『こんにちわ。突然お便り失礼いたします。
 私はフィリピン在住の小野寺と申します。この度はスポンサー募集させて頂きたく思います。発掘場所はフィリピン国内で、現在すでに発掘済みです。実は私の友人の家族が金の採掘精製を職業にしております。私は金の知識が浅いので日本の方も十分に納得出来るお話と思い情報収集していたとこ ろ、こちらのホームページが目につきご連絡いたしました。
 現在、韓国とアメリカ人と取引をしておりますが支払いがルーズなために信頼できる日本人の購入者を希望しています。フィリピンは偽装金が多いときいておりますが、採掘から精製まで一貫しており、また精製後純度確認を致しますので間違いありません。金の出荷量ですが3ヶ月毎に約30キロになります。採掘担当者の話では10年ぐらいの期間は採掘可能です。スポンサーの件ですが当方資金不足の為!今回は1口300万円で募集いたします。また分配は約10年間3か月ごとにお支払いいたします』。
 という内容です。
 海外のフィリピンと『日本の埋蔵金』研究を目的とする当Webサイトの“守備範囲外”になりますが、すでに発掘済みという点が興味を引いたのでWebサイト上で紹介することに致しました。この世知辛いご時世、使い道に困った“夢のための資金”をふんだんにお持ちの方にご参考までに。
◇連絡先E-Mail◇
mark0088jp@hotmail.com
(ロボット検索によるアドレス自動収集防止策のため、全角文字にしております。実際のアドレスは半角です)

 ちなみに当Webサイトはこの小野寺さんとは面識もなければ一切の利害上の関係もありません。問い合わせをする、協力を申し出る、スポンサーになる等、全てご自分の判断、責任の上で行動していただくことをあらためて確認させて頂きます。
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奈良時代の銅の鋳造技術解明へ。

 皆様、本年もよろしくお願いいたします。さて2003年はどんな年になるのでしょうか?
 わが国の経済のためにもここらで明るい話題の欲しいところ。頑張りましょう。ということで、昨年の暮れに届いたちょっと気になる話題をご紹介。
 それは滋賀県の信楽町の横瀬で“鍛冶屋敷”の遺跡が発見されたというもの。奈良時代、仏像などを造っていた鋳造工房跡と見られている。ということは聖武天皇がすすめた仏像建立計画の一環を裏づける物証としても貴重な遺跡の発見といえるのだ。
 発掘現場は“新宮神社遺跡発掘調査”が行われていた地点で、第二名神高速道路建設に伴って平成12年4月から実施されていた。これまでの調査により「奈良時代の掘立柱建物3棟などが出土、遺物調査から紫香楽宮が営まれた奈良時代中頃を中心とする時期の遺構と考えられる。出土する土器は、地元の近江では一般的に出土せず、平城京内でよくみられるもので、日常的な雑器(食器・煮炊具)からは平城京と非常に近い関係があったことがうかがわれる」(滋賀県教育委員会・財団法人滋賀県文化財保護協会)などの点が判明していた。
 今回、銅製品鋳造のための溶解炉や鋳込み遺構が約50mにわたって2列で整然と並んでいるのが発見された。その中には、一辺が4~5mの方形大型鋳込み遺構が2基発見され、1基は仏像の台座を鋳こんだと思われる平面六角形の鋳型で、もう1基は直径1.8m程度の梵鐘の中子がほぼ原型のままで出土したという。
 この場所は聖武天皇が743年に着手したと言われる甲賀寺に近く、この鋳造工房で甲賀寺の仏像を造っていたと推定されるという。それでなくとも奈良時代の銅の鋳造技術は不明な部分が多く、今回の遺跡発掘でかなりの部分が解明出来るのでは期待される。

お寺の境内から小判38枚出土。誰のものに?

 埼玉県内で光明寺といえば、
 秩父市の「向嶽山光明寺」や、比企郡吉見町にある「息障院光明寺」(こちらは平安末期に源義朝が平治の乱に敗れた後、頼朝の弟範頼が稚児僧として入り、後に領主となったという範頼の館跡でいまも「御所」と呼ばれて県の史跡指定されている)、はたまた文暦元年甲午3月18日開創と伝えられる秩父札所の2番納経所となっている「光明院」などが有名だが、こちらは長瀞の地にある「光明院」からのニュース(確かこちらの「光明院」は、樹齢約250年、樹高22m、目通り3mという大カヤの木で有名だったのでは?未確認情報ですが)。
 2002年7月29日のこと、「排水管の埋設工事を依頼されて工事を行っていた左官屋さんが、まったく偶然に境内の地下から瓶に入った小判38枚を発見した」というのだ。小判の種類が判明していない(現在、埼玉県教育委員会で“鑑定中”とのこと。発表されている小判のサイズは縦6センチ、横3センチ、重さ13グラム)ため年代を限定できないが、瓶に入っていたこと、そして枚数的な面を考えれば、江戸時代ではごくごく当たり前といえた財産保全目的の埋蔵だ。それが何らかの理由で掘り出されることなく忘れ去られてしまったのだろう。
 ちなみにこのニュースを報道した朝日新聞の7月30日付け朝刊によれば、「住職(53)は『昔の住職が後継者のために埋めたのだろう』と手元に残したい意向だが、埼玉県教委などの鑑査で文化財となれば、行政の保管に。住職は『先人の心意気もくんでほしい』」とのこと。
 ちなみに文化財として“取り上げられ“てしまった場合、発見者には“報奨金”が入るだけってことに。この“報奨金”の算出がなかなか分かりにくくて、ま、「雀の涙」的に考えていただければ当たらずとも遠からず……というニースでした。

工事現場から小判をはじめ合計1295枚出土

 2002年3月、富山県小矢部市の工事現場で、
 口径約30センチのかめが出土し、中から小判12枚をはじめ、硬貨合計1295枚がでてきたというニュースが入った。
 出土した場所は、旧道の保全を目的に国土交通省が進める“歴史国道”整備事業の造成地で、同省が買収する約1年半前までは個人所有の竹やぶだった所という。
 富山県小矢部市といえばあの“桜町遺跡”で有名で、こちらも1988年に、国道8号バイパスの建設工事に伴い発見されたという由縁をもっている。今から約12000年前の縄文時代草創期から約2300年前の縄文時代晩期までの、縄文時代全期間にわたる遺跡として一躍注目を集めるようになった遺跡だ。それまで米作りの技術とともに弥生時代に日本へ伝えられたと考えられていた高床式の建物が、じつは定説よりも2000年も前の縄文時代に、すでに存在していたことを証明することになったのは記憶に新しいのでは。
 今回の“出土品”の中には明治初期の刻印のある金貨も含まれていたそうで、その点では文化財的な意味は薄く、旧家の隠し財産、私的な埋蔵物と判断していいのではないだろうか。また、国士交通省としても「埋蔵物の帰属が国となるかどうか判断できず」ということで、小矢部暑に届け出ており、今後同署が鑑定と所有権の特定をすることになっている。
 市としては「所有者が判明すれば、譲り受けるか借りて公開したい」とのこと。
 ちなみにここで“歴史国道”整備事業というのをざっと紹介しておくと、『かつて歴史上重要な幹線道路として利用され、そのなかでも特に重要な歴史的・文化的価値を有する道路を“歴史国道”と称し、その道路を対象として、保存、復元および活用を図り、あわせて地域からの情報発信を行うことにより歴史文化を軸とした地域づくりと活性化、地域の歴史文化と触れ合うことのできる魅力的な空間づくり、道と地域の歴史文化の継承などを目的として実施される事業です』というもの。
 今回の小矢部市の工事もこの一環として行われていたもので、小矢部市桜町~石川県津幡町竹橋の間約12.8キロの旧北陸道はすでに整備が進み、遊歩道としてよみがえっている。歴史ロマンを感じさせる市民参加のイベント等も行われているので足を伸ばしてみてはいかがだろう。

興福寺、中金堂の復元現場から金の薄板や水晶玉!

 不景気風が吹きまくっておりますが、皆様研究の進捗状況はいかがでしょうか?
 なかなか時間と予算がとれなくて……。いずこも同じなんとやら、なのではないでしょうか。
 それはともかく、ちょっと気になったニュースを。それは奈良の興福寺、中金堂の復元現場から金の薄板や水晶玉などの“鎮壇具”が発見されたというものです。
 埋蔵金からはちょっと外れますが、埋蔵文化財ということで取り上げてみました。2002年1月31日付けの朝日新聞朝刊に載ったニュースで概要を紹介すると、
『金板や水晶玉 宝物300点出土  奈良の興福寺
 奈良・興福寺の中金堂(ルビ:ちゅうこんどう)を創建当時の姿に復元するため、発掘調査していた奈良文化財研究所と興福寺は30日、仏像を安置した須弥壇(ルビ:しゅみだん)の下から金や水晶玉などの宝物約300点が出土したと発表した。
 奈良時代初め(8世紀前半)に興福寺を創建した際、その土地の神がたたりをなさないよう鎮めるために埋めた「鎮壇具(ちんだんぐ)」の一部と見られる。』(以上朝日新聞紙面より)
 興福寺といえば、飛鳥時代の「厩坂寺」、さらにさかのぼって天智朝の山背国「山階寺」が起源という法相宗の大本山としておなじみだろう。『山階寺は、天智8年(669)に藤原鎌足が重い病気を患った際に、夫人である鏡大王が夫の回復を祈願して、釈迦三尊、四天王などの諸仏を安置するために造営したものと伝えられており、この名称は後世においても興福寺の別称として使われています。その後、壬申の乱(672)ののち、飛鳥に都が戻った際に、山階寺も移建され、その地名を取って厩坂寺とされました。さらに、平城遷都の際、和銅3年(710)藤原不比等の計画によって移されるとともに、「興福寺」と名付けられたのです。』(興福寺Webサイトより)
 で、この興福寺にある「中金堂」の復元現場から金の薄板や水晶玉などの埋宝が出現したというわけだ。「中金堂」自体の由来も興福寺Webサイトによると『和銅3年(710)創建の中金堂は、享保2年(1717)に焼失後、文政2年(1819)に仮堂として再建され、赤堂として親しまれてきました。』  その「中金堂」の復元工事は『仮堂再建以来150年以上経過し、使用材がマツ材であることや、瓦が割れて雨漏りし老朽化がすすみましたので、昭和50年(1975)に講堂跡に仮金堂を建立し、本尊の釈迦如来像、薬王・薬上菩薩像、四天王像を移座申し上げて参りました。現中金堂内陣 平成3年(1991)から各界の学識経験者や文化庁・奈良県・奈良市のご指導を仰ぎながら、中金堂院を中心とした興福寺境内の整備に関して、種々検討してきました。その結果、平成10年(1998)から中門・回廊跡の発掘調査を開始し、12年から現中金堂解体、基壇の発掘調査を行い、その結果に基づいて創建当初の中金堂設計を行い、来る平成22年(2010)の興福寺創建1300年という記念すべき年の再建に向けて、邁進することになりました。』とのこと。
(興福寺Webサイト:http://www.kohfukuji.com/kohfukuji/index.html)
 このところ埋蔵金関係のニュースが無くて寂しい限り。ま、それほどちょくちょくある、ってもんでもありませんが……2002年もよろしくお願いいたします。

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